旅館に潜む何者かの正体とは

祖母の法事があり、先日、十数年ぶりに故郷の山奥の町に帰ってみました。法事の後宴会があり、そこで遠縁の爺さんに面白い話を聞いたので書いてみます。
爺さんはその町から、更に車で一時間ばかり走る村のひとですが、(今では温泉街だってことで、そっちの村の方が栄えているんですけど) その村で代々、温泉宿を経営しているそうです。 以下、爺さんが未だ壮年の頃の話ですが、便宜上、爺さんと記します。

昭和30年頃の事件だっていうから、まあ、そんなに昔ではない。腹心だと信じていた番頭の、多額の横領が発覚した事が、この事件の発端。先代から奉公してくれていた男で、信頼していたんだが、まあ、仕方ない。クビを言い渡した。すると、その番頭は逆恨みをしたらしく、「先代から誠心誠意尽くして来た自分をクビにするなんて、当代は鬼だ畜生だ。自分はこれから川に身投げをして自殺するが、この山宿の主の仕打ちは許さない。末代までも祟ってやる、思い知れ。」という内容の置き手紙を残して、姿を消してしまったそうな。元々、東京の大学も出てるインテリだった爺さんは、最初「何を、科学全盛の今の世に、前近代的な恨み言を抜かしおって」と、遺書に書かれた呪詛の言葉なんか全く気にしなかったそうだ。

…だが、やがて本当に怪異が始まった。まず、複数の従業員が、
「夜中の岩風呂から誰かがいる気配がする」
「泊まり客がいないはずの離れから夜中に物音が聞こえる」
「隣町で、死んだはずの番頭さんの姿を見た」
みたいな事を言い出した。勿論、従業員にはキツく箝口令を敷いたのだが、次第に泊まり客からも同じような苦情が入るようになった。
「夜寝ていると、部屋の中を誰かが歩いている」
「真っ暗なのに、誰かが便所を使っている気配がする」
「廊下の曲がり角から、青い顔の幽霊がこちらを覗いていた」
「部屋を空けている間に物が動いていたり、無くなったりする」
近隣の鉱山町の住人が主なお客と云う事もあり、アッという間に噂は広まった。そうなると、信用第一の旅館商売、とたんに客足が減り始めた。悪い事に地元の田舎新聞はおろか、誰から聞いたか全国紙の週刊誌までが、『山宿の怪』と題したゴシップ記事を掲載し、面白怖く騒ぎ立てた。そんな騒ぎが2年も続き、爺さんは本気で廃業を考えたそうな。(今ならオカルト旅館って銘打って、逆に売り出せそうな気がするけど…)

打つ手もなく焦燥した毎日を送る爺さんに、ある日警察から連絡が入った。隣町で無銭飲食の老人を捕まえたのだが、貴方に身元引受人をお願いしたい、と言っている。との事。爺さんが不審に思いながらも警察に出頭すると…信じられない事に、あの番頭が、頭を掻きながら小さくなって座っている。番頭は、確かに腹いせに呪詛に満ちた置き手紙を書いて出奔したが、死ぬ気なんか更々無く、いずれ見返してやると、結構前向きに考えていたらしい。新しい職場を求めて近場の都市へ意気揚々と出てみたが、多少の商才はあっても、所詮は田舎の山宿の番頭程度の就労経験しかない、初老の男に世間は世知辛く、再就職の道は険しかった。

たちまち喰うに困った番頭は、呆れた事に山宿に舞い戻り、勝手知ったる他人の家、日中は使われない布団部屋や空き部屋等に身を潜め、宿泊客も従業員も寝静まった真夜中を見計らっては、食事や風呂を失敬し、
時には帳場や宿泊客の財布から小銭をくすねて、(警察を呼ばれるので、被害者が大事にしない程度の金額をと気をつけたらしい)息抜きに遊びに出掛ける、と云う生活を、なんと2年も続けたと云う。久しぶりに再会した番頭は、ろくに日の光にも当たらなかったせいかまるで地獄の底から這い出て来た幽鬼のようで、爺さんは心底ゾっとしたそうな。

これ以上関わりたくないと思った爺さんは、番頭の身元をとりあえず引き受け、ある程度まとまった金を手渡し、その代わり、今後一切旅館に近づかない、関わらないと云う念書を書かせ、改めて縁を切ったと云う。
「私はな、いっそ自分の旅館に幽霊が出ると信じていた頃のほうが、まだ気分が楽だったですな。もう半世紀も昔の事ですが、山宿していて一番恐ろしい経験やったねえ」…と、爺さんは話を結びました。その、江戸川乱歩もびっくりの『深夜の徘徊者』が潜んでいた爺さんの山宿に是非一晩泊めてもらいたい、と願いましたが、残念ながら、平成に入ってすぐ、近代的なホテルに建て替えてしまったそうです。

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