ヤコという妖怪がいる。漢字で夜狐と書く。狐の怪談は全国に広く、特に九州で長崎に多い。
2000年のこと。学生時代。当時、沖縄の大学に通っていた私。沖縄の夏は暑い。
部屋にクーラーがない私は、涼みながら外食しようと、友人で唯一、車を持つ川野に連絡した。川野は「すぐに迎えにいくよ」と電話を切る。彼の家はここから車で5分と離れていない。私は仕度をし、川野の到着を外で待った。夜8時。夏といえども辺りは暗い。覚えたての煙草をふかしながら待つ。
しかし…20分後…来ない…30分後……まだ来ない。もう一度電話をする。電話に出ない。何本目の煙草を吸ったか、もう1時間半は経つ。川野は真面目な奴で時間に遅れることはない。
おかしいと思い、待つことを諦めた私は歩いて彼の家まで行く事にした。4~5分歩いたろうか、きび畑の畦道に差し掛かった頃、彼から携帯に連絡があったことに気付き、折り返した。電話に出るやいなや、
「おい、ヤコに遇ったぞ、ヤコや」と、大きな声で叫んでいる。
「ヤコ? なんだいそりゃあ?」と私。
「ヤコやヤコ! お前知らんとや? やっと抜け出したからもう着くわ」
「今、きび畑の畦道前におるから…ああ、そこ。自販機のあるところ。そこまで来て」
ジュースを飲みながら待っていると、彼の黒い軽が見えた。助手席に乗り込む。
「なんな? ヤコって。遅れたことの言い訳か」笑いながら話しかけたが、彼の顔は真っ青。声ばかりか手まで震わせ、こう言った。
「ヤコちゃあ狐のこったい。うちの家系はヤコ付きたい」
「ほうそれでそれがなんで遅れたことに関係ある?」
「そこのきび畑の一本道から抜け出せなんだ。ヤコに騙されてぇ」
「まあ落ち着けよ。煙草でも吸ってさ」
震えながら持った煙草は前後、逆。フィルターに火を点けようとしている。煙が妙にきつい。おかしな吸い方をしているようだ。
ようやく落ち着きを取り返した体の彼に話を聞くと、ヤコに騙され、1時間もの間、この一本道をループしていたらしい。どうやらヤコは幻を見せ、人を道に迷わせるらしい。畦道はおよそ百メートル。きび畑の半分は工事中で整地されつつある。が、迷うような距離でない。
彼は長崎出身。彼の家系はヤコ付きという。ヤコ付きの家系に嫁ぐならライ病患者の家に嫁ぐほうがましだともいう。彼の祖父もたびたび騙されるらしく、運転しながら祖父に電話をしている。その奇妙な、私には分からない感覚が不安を与えた。その後、幸なことに彼はヤコには遇っていない。あのきび畑の畦道も整備され、味気ない道路になった。
ある民俗史によると、島の多い長崎では、島単位、島全体でこのヤコが付いている家系もあるという。またヤコは力が増せば人を殺してしまうとある。もしあのまま騙され、きび畑を抜け出せなかったら…。おそろしやおそろしや。ヤコから抜け出す方法は様々あるが…ここにいる方々は出遭うこともなかろうから、割愛す。