千葉県のA市にあるビジネスホテルにはある恐ろしい噂がある。長い間関係者の間のみで語られてきた噂なのだが、最近、偶然にもその噂を耳にする機会があったので今回語らせてもらう事にした。この話をしてくれたのは、中学校からの友人でもあるKさんだった。
「602号室には絶対泊まったらいけないよ」
私が仕事の都合でそのビジネスホテルに泊まる事になり、ちょうどその場に居合わせたKさんが私にこう忠告をしてくれたのがきっかけだった。
二年前までKさんはこのビジネスホテルの従業員をしていた。宿泊客が帰った後に部屋の中の掃除をしたり、備品のチェックをする仕事である。石鹸や歯磨きを持ち帰ってしまう客や、ベッドをぐしゃぐしゃにして帰っていく客、酒を飲んで騒いだあげくにゴミを散らかして行く客など、さまざまな「後汚し」を元の状態に戻すのは結構大変な仕事らしい。仕事をはじめたばかりのKさんもその大変さに、かなりまいっていたという。そんなKさんの唯一の救いが「602号室」だった。602号室は先輩から「ここはやらなくていいから」と言われていて、『ああ、この部屋には何かあるな』とは感じていたものの、先輩達も602号室についてそれ以上口を開くこともなく、やらなくてもいいのならばそれでいい、とKさんは最初はそう考えていた。異変に気づいたのは仕事をはじめてから一ヶ月ほど経ったころだった。
一ヶ月も続ければ仕事に慣れてきて、Kさんにも余裕がでてきたからだろうか、先輩達の602号室に対する扱い方に何らかの恐怖が混じっていることに気づいたそうだ。602号室の前を通るときも、ドアからできるだけ離れて歩き、両端の部屋の掃除をするにもいつもなら優しい先輩達が新入りに押し付けているのだ。その顔には明らかな恐怖が現れていたと、Kさんは言った。
しばらくして、Kさんにもようやく後輩ができた。Tさんという小柄な女性で、少し真面目すぎる所があったという。Kさんも先輩達と同じように「602号室はやらなくていいから」と教えた。ところがTさんは「きちんとやらなくゃいけないんじゃ・・?」と真面目な顔で言ってきた。確かに考えてみればKさんや先輩達は今まで、一回も602号室を掃除したことはなく、それでも不思議なことに602号室には何人もお客が泊まっている。部屋が汚くされているのならば、苦情がフロントに届き、何らかの叱責が伝えられるはずである。今まで見逃してきたその奇怪な状況に、Kさんの好奇心が刺激されたのか、深く聞くまいとしていた602号室のことを、仕事中一緒になった先輩に聞くことにしたという。
最初は「何でもないから・・・」と言葉を濁らせていた先輩も、Kさんが何度も何度もしつこいほどに聞くのに観念したのか、こう言ったという。
先輩:「あそこにはね、出るの」
予想はしていたが、Kさんは本当に「出る」なんて事があるのかと、心底驚いたらしい。確かに一ヶ月以上も働いていたホテルに「出る」部屋があり、それを信じている従業員達が、その部屋を避けている。現実の中にあるはずなのに、現実感が欠落しているような状況である。
しかも先輩はこう付け加えたという。
先輩:「出るのは幽霊じゃなくてね、なんかもっと気持ち悪いものらしいの。はっきりと見た人はいないんだけど、見たら殺されるっていうから・・。私も前にいた先輩から聞いた話なんだけどね。あの部屋を掃除しなくてもいいのは、その気持ち悪いものがしているかららしいの。どんなに宿泊客が汚くして出て行っても、次のお客さんが入るまでには綺麗になっていて、備品もそろっているって話・・・・。実際、なんの苦情もきていないところをみると、本当みたいなのよ。あの部屋、もう十年ぐらい、誰も掃除していないはずなのにね」
ベッドを直しながら、先輩はKさんにそう語ったという。
Kさんが「泊まってるお客さんには、何もないんですか?」と聞いたらしいが、先輩は「何も無いはずは無いわよね。でも宿泊客のその後なんか調べるわけにもいかないし、こんな事、お客さんに知られたらまずいでしょ?それにね、宿泊した後はもうお客さんじゃないんだから、どうでもいいんじゃない?」と言ったそうだ。それからしばらくして、Kさんはこの仕事を辞めた。やめた理由について聞くと、Kさんは暗い表情で次のように言った。
Kさん:「後輩のTさんね、亡くなったの。とっても真面目な子だったから、ある日、602号室の掃除をしてしまってね。私が彼女の悲鳴で部屋の前に駆けつけたときには、彼女は泣きじゃくりながら壁に頭を何度も何度も叩きつけて、『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』って謝ってた。何かとてつもなく恐ろしい物をみたのか、精神を病んでしまってね。最後は病院から抜け出して、電車に頭を吹っ飛ばされて・・・・」
私はすぐ、別のホテルの予約をとった。Kさんが語ってくれた602号室の恐ろしい話。それが本当なのか確認することはできないが、Kさんは絶対に嘘をつく人間ではない、という事は私が保証しよう。