後輩の話。秋口に単独で入山していた時のこと。一泊程度の簡単なルートを予定しており、食料も簡単なものを用意していた。初日の昼に菓子パンの昼食を摂っていると、後ろから声がかけられた。見るといつの間に現れたのか、長い黒髪の女性が立っている。赤いロングコートそしてスカートにブーツと、凡そ山に相応しくない格好をしていた。菓子パンを持ってポカンとしている彼に、彼女はこう言ってきた。
「ね、賭けをしない?」
詳しく聞いてみると、彼が今手にしている菓子パンを、一口で食べられるかどうか賭けないかと、その女性は提案していたのだった。何を賭けるんですかと聞くと「手持ちの食料、全部」と言ってきた。思わずじっと、自分の持っているパンを見る。通常よりかなり大きい、お徳用のメロンパンだ。彼女の整った小さな顔と何回も見比べる。
「いくら何でも、一口じゃ無理ですよ」
相手にしないでいると、いきなりパンがひったくられた。何をする!と怒りかけた目前で、女性の清楚そうな顔が歪む。次の瞬間、口が顔の下半分一杯に拡がり、彼女はパンを一口で飲み込んでしまった。ビニールの袋ごとごくり、という音を彼はぼんやりと聞いた。
白い手が差し出され「勝ったわよ」という言葉が続く。急に怖くなり、ザックから引っ張り出した食料を、すべてその繊手に押し付ける。にんまり笑う女性に別れを告げ、一目散にその場を後にする。差し出した食べ物が食いつくされる前に、とにかく彼女の目の届かない場所へ逃げ出したかったのだという。結局、予定を切り上げて、その日の内に下山したそうだ。