【時間が止まる】真っ白い女が忘れていった湯呑み

旅先で聞いた話。冬の終わり、日当たりの良い山の斜面で植え付けのための地拵えをしていた。昼までに一仕事終え、休息をとる。火を熾し、腰を下ろして弁当を拡げた。頭上には晴れ渡った空。南中の太陽から降り注ぐ日差しに目を細める…

パンッ
突然、目の前で柏手が一つ打たれた。いわゆる猫だまし。驚くと同時に我に返った。見上げると陽光が少し傾いている。まるで午睡から覚めたような気分。掌を打つ乾いた音が、まだ耳朶に響いていた。

見ると、焚き火は土を被せて消されており、そこから細い煙が一筋立ち上っている。地面には空になった弁当箱。その隣に水筒と並んで見慣れない湯飲みが置かれていた。荒々しい造りのごつい湯飲み。持ってみると、ほんのり温かった。

仕事を再開したものの、無性に腹が減ってきたので早めに切り上げることにした。例のごつい湯飲みは持って帰ることにした。弁当の駄賃という気持ちだった。納屋にある作業棚の上に置き、ヤスリやワイヤーブラシなどを突っ込んでおいた。

かれこれ5年ほどになるが、今のところ何も異常は起きていない。ただ、目の前で打ち鳴らされた両の手の映像は、今でも目裏に焼き付いている。ごつい湯飲みには似合わない、真っ白い女のような手だったそうだ。

※猫だましとは
立合いと同時に相手力士の目の前に両手を突き出して掌を合わせて叩くもので、相手の目をつぶらせることを目的とする相撲の戦法の一種。

メールアドレスが公開されることはありません。