友人の話。彼女の実家は、山深い田舎にある。都市部では縁遠くなった祭りなどがまだおこなわれていて、彼女曰く、帰郷するのをけっこう楽しみにしているらしい。
彼女がまだ小学生だった頃。従姉妹たちに誘われて、近くの神社の夏祭りに出かけた。出る前に祖父が声をかけると、こんなことを言われた。
「にやりにやりに会わんようにな」
意味がわからなかった彼女はさして気にも留めず、従姉妹と一緒に家を走り出た。
境内は狭かったが、子供が満足するほどには夜店が出ていた。人出も結構多く、祭りの雰囲気を満喫したという。焼きトウモロコシを買ったのだが、後で食べようと思い、口を付けずにおいた。そのまま人ごみに押されて、お堂の方へと流されて行く。横手には沢山の絵馬が奉納されていた。
その時、絵に描かれた馬と目があった。馬はいやらしく口元を歪めて、ニヤリ、と笑いかけてきた。慌てて従姉妹に知らせたのだが、従姉妹には普通の絵馬に見えたと言う。しかしそう言いながらも、従姉妹は彼女を背中にかばってくれた。馬はその間も、ずっとニヤニヤと笑っている。
従姉妹はすっかり怯えてしまった彼女の手を引き、「帰ろう」と言ってくれた。異論のある筈もない。先に歩き出した従姉妹の背中、浴衣の帯びに団扇が指してあった。その団扇の中ほどに、唐突に赤い線が、すぅっと引かれる。線は下品に口を開いて、ニヤリ、と笑いかけた。彼女の目と鼻の先で。悲鳴を押し殺し、従姉妹の手を振り払って境内を駆け出した。
彼女が走り抜けるにしたがい、両脇の屋台に不気味な笑みが走る。お面売り場のお面たちが皆、いやらしくニヤニヤと笑う。たこ焼き屋の看板、絵の蛸が突き出した口を歪めて、ニヤリ。幼子の持った風船に口が浮き出して、ニヤリ。ばら売りブロマイドのアイドルたちが、こちらを見つめて、ニヤリ。タライに浮かべられた西瓜が、ぱっくり口を開けて、ニヤリ。
駆け下りた石段脇の狛犬までが、ニヤリと笑いかけてきた。彼女はついに泣き出して、家に向かい夜道を走り出した。暗くてよく見えなかったが、通り道の塀には広告が何枚も貼られている。広告の女性の口元が、ニヤリとしている気がして、顔を上げることが出来ない。
道半ばで息が切れ、足を止めた。後ろの方から、彼女の名前を呼ぶ声が追ってくる。従姉妹が心配して追ってきているのだ。目を落とすと、トウモロコシを手に持ったままだった。急に空腹を憶えて、口を近づける。と、いきなりトウモロコシが黒くなった。目を見張る彼女に向かい、一粒一粒の表面に浮き出した小さな口が嘲笑していた。
ニヤニヤニヤニヤ・・・
気がつくと、実家の布団の中だった。気を失っていたらしい。祖父母と従兄弟が、心配そうに見下ろしていた。そこで初めて、思い切り声を上げて泣いたのだそうだ。
祖父が次のように言う。
「あれは人を驚かせるだけで、祟るような悪さはせん。安心しぃ」
祟るという言葉に反応し、彼女は一層泣き出してしまった。家族はなだめるのに一苦労したという。後で従姉妹に聞いてみると、時々出るよ、とあっさり答えられた。登下校の時が一番よく出るのだと。
目の前の友達のランドセルが、ニヤァと笑いかけるらしい。それでも、彼女が祭りで体験したほどのことは、まず無いという。
「からかい甲斐があったんだね」
そう言われて、思わず憮然としたそうだ。
地元では、にやりにやりは狐の仕業ではないかと言われていた。
「お狐だかお狸だか知らないけど、まったく大概にしてほしいわ!」
彼女はそう怒って見せたが、それからも祭りの時期には里帰りし続けたという。今となっては、幼き日の恐怖も、懐かしい思い出なのかもしれない。彼女はそれ以降、にやりにやりには出会っていないそうだ。