山中、キャンプなどをしてテント張りで独り夜を明かそうとすると、時折「寝た?」と突然、耳元で囁かれることがある。大抵の人は空耳かと思い、釈然としないまま、結局は、睡魔に負けて目を閉じてしまうだろう。 しかし、希に、これに答えてしまう者がいる。
恐怖のためか、はたまた勇気のためか、けれどもこれは大変にいけない。人里はなれた山中で、少しの灯りもない場所で、唐突に人間に語りかけるモノが有るとすれば、これはもう人外や怪かしの類で間違いない考えなければいけない。その多くは狸や狐などの悪戯が目的の些細なものだが、時折、越してはいけない境界線からまたぎ出た存在の場合がある。「寝た?」と尋ねられた場合は、殆どがこれに該当するといってよい。
そうした時、尋ねられた人間は決してその問答に応じてはいけない。なぜなら答えるという行為は、関わってはいけない異界と縁を持つ、ある種の契約に近いからだ。答えたら最後、戻れない異質に取り込まれて、どうやっても山を下れない。
総じて彼等は、異形であの者達を彼等と呼称していいかどうかはさておき、酷く賢い。「寝た?」と言う問答が彼等であると断じた理由はそれだ。彼等は人間を、迷い込んだ獲物を、正面からねじ伏せるような粗暴な事を好まない。彼等はまず獲物をじっと伺う。獲物が油断するのをじっと伺う。獲物に睡魔が訪れて、警戒心が一番薄れるのを待っている。
もう一度言う、もしも山中で「寝た?」と尋ねられても、決して答えないこと。その後も彼等は、色々な問いかけをしてくるだろうが、何があっても決して答えてもいけない。答えたが最後、その時よりすでに、そこは山中であって山中ではない。取り込まれた者達が、その後どんな末路をたどるかは知る由もないが、悠久の泥濘の様に濁った世界がろくな結末を用意してくれないのは少なくとも確かなことだ。