先日、地元の渓流釣の解禁を受けて山奥へと岩魚を狙いに出掛けた。一晩は山の中で過ごすつもりでそれなりの装備を持って昼から出掛け、その日の夕方から釣り出した。自分の秘密の場所なので他に釣り人も居ない。天子を五匹、岩魚を四匹釣った。川原の岩陰にツェルトを張って、飯を炊いて魚を焼き、骨酒を作って飲んだりしながら過ごしていたら、木々の間から人の話し声が聞こえてきた。
もう辺りは真っ暗だったので、「こんな時間に上ってくるなんて珍しいな」と、声がする方を見ていると、男と女がこちらに向かってくるのが見えた。近づいてくる彼らを見ていたら、明らかに普通の人間じゃない。男は髭だらけの顔で、目が深く落ち窪んでいる。まるで原人のような風貌だ。女は切れ長な目のキツそうな美人だが、まだ幼さを残している。そして、何よりも奇天烈なのが服装だ。男は襤褸切れのような布を何枚も巻き付けているだけ。女は薄桃色の着物なのだが、だらしなく肌蹴ている。
その場所は相当な山奥で、林道の執着点から川沿いに何キロも登ってきた所。雪もかなり深く、この時期に入り込むのは俺のような酔狂な釣り人くらいのモノだ。俺はあまりの異様な事態に、呆然と彼らが近づいてくるのを見ていた。彼らは俺のいる川原の対岸に降りてくると、男の方が「今晩は。」と挨拶をしてきた。異様な風体からは想像も付かない普通の挨拶に、「アア、コンバンハ」とすっ呆けた声で応じてしまう俺。彼は「寒いですなあ。火に当たらせてもらえんですか」と普通の声で言う。俺は「ああ、どうぞ・・・。」と答え、彼らが川を渡ってくるのを呆然と見ていた。男は女を抱き抱え、3メートルほどの川を一飛びにこちらへ渡り、俺の対面に座った。すると、女が男から降りていきなり俺の膝に乗ってきた。俺は驚いたが、男は何も言わないし、もういったい何が起こっているのか理解の範疇を越え過ぎていて訳が分からず一言も発せられなかった。
彼女は俺の膝の上で火に当たりながら、俺の手を握って来た。女は意外なほど軽く、手は冷たく、体は冷え切っていた。黒々とした髪からは若葉のような香りがし、銀細工のような飾りが一つ有った。男が何処から出したか竹筒の水筒を口に運び、何かを飲んでいる。俺もまた、先程作った岩魚の骨酒を飲もうかと片手を女の手から離して茶碗を掴んだ。酒を一気に飲み干し、中の岩魚をもう一度火にくべて焼き始めると女の腹がぐうと鳴るのが聞こえた。「腹が空いてるのかい?」と聞くとこくんと頷いたので、先程釣った魚の残りを焼き、炊いておいた飯を出して盛り付け、沸かした湯で出汁入り味噌を溶いて味噌汁を作り、女に出してやった。男が「スマンですなあ。」と言うので「あなたもどうぞ」と男にも渡す。二人はがっつく事もなく、むしゃむしゃと飯を食っている。
その光景を見ていたら思考回路が戻ってきたので、俺は男に「貴方達は何者ですか?」とストレートに尋ねてみた。男は、「ワシはごろう、其れ(女)はきりょう。これから奥羽のおじきの所へ向かう所ですわ。」と答える。「ハアぁ・・・。」俺は聞きたいのはそんな事じゃないんだが、と思ったが言えなかった。飯も食い終わり、しばらくすると女は軽い寝息を立てて寝入ってしまった。男も雪の上にゴロンと横になり、また竹水筒を口に運んでいる。俺もかなり酒を飲んで眠くなってきたので、そのままシュラフに潜り込んで寝てしまった。
翌朝、寒さで目が覚めると俺は一人でツェルトの中でシュラフに包っていた。ハッと飛び起きジッパーを空け外を見ると誰もいない。「なんだ、夢だったのか・・・?」と思いつつツェルトから這い出したら、昨夜座っていたマットの上に銀細工の髪飾りと竹水筒が二つ置いてある。髪飾りを手に取り「夢じゃなかったのか・・・?」と思いつつ竹水筒を開け、一口含んでみると、爽やかな笹の香りのする酒だった。