これは祖父が林業を辞める1週間前の話らしく、さらに手記を読んでみると、林業を辞める間接的な要因にもなったようです。
祖父はその日、沢の付近にいい犬槐の木が生えており、それをとってきてほしいと依頼をされました。
親方にその場所までの行き方を聞いている時のことです。
「沢なりに上る道はあるが、その道は歩くな」と言われました。
道を外れてあえて歩きにくい森の中をいけというのです。
祖父は少し疑問に思いながらも、言われた通り森の中を進んでいきました。
しかし、森の中をいくのは足場も悪く、行く手を遮る草木を払って進むようなので、体力の消耗が激しいため、誘惑に負けて沢の道へ出てしまいました。
ちょうど昼時だったために昼食をとりながら一休みしている時、あることに気づきました。
座って休憩している祖父の周りで、ひそひそ声が聞こえることに気づいたそうです。
それは祖父を取り囲むようにひそひそ聞こえているのですが、祖父が動こうとしたりするとぴたっと聞こえなくなるのです。
気味が悪くなってきたと思った祖父は早々と昼食を終えて登り切ってしまおうと思いました。
山から見晴らしのいい方を眺めて食事をしていたため、振り返って再び沢の道を上ろうとしたときに、祖父は体が固まってしまいました。
進行方向の木の陰から真っ黒な人間みたいなものが祖父の方をのぞき込んでいたのです。
それは見間違いとかではなく、ずっとその場に居続けました。
さらにそれは祖父が見つめていると、ぼそぼそざわざわとしゃべっています。
黒い人間みたいなそれは、体と顔の大部分は真っ黒なのに、不思議と口をぱくぱくと話しているのは見えたそうです。真っ赤な口と白い歯が見えたらしいです。
その黒い人間は最初は一人だけ見えていたのですが、近づくと隠れて離れた所にまた出てくる。
そういう行動を繰り返していました。
不気味に思いながらも我慢して上っていくと、それが沢の反対側、ほかの木の陰、岩の陰からでていることに気づき、歩みが自然と止まってしまいました。
そこで祖父は下山しようかどうか迷っていましたが、誰も沢の方にいかないため依頼者は祖父に高い料金で依頼していました。
また、祖父は林業をやめた後に夢や考えがあったため先立つものが必要でした。
そのため我慢して依頼された木を取りに行くことにしました。
不気味な声をできるだけ聞かないように我慢しながらも祖父が木を切り、引っ張って下ろせるように細かく切り分けて、縄でくくって沢の道を下り始めました。
するとぼそぼそ声がだんだんはっきり聞こえてくるようになりました。
聞いてみるとそれは子供の声、赤ん坊の泣き声、すすり泣く声や泣きわめく声も混じっているようでした。
中には「ひもじい」「なんで迎えにきてくれないの」「まだかな」という子供の声が聞こえました。
祖父はなんだか気疲れしてしまい、沢の石の上に座り込んでうなだれました。
岩の陰からも真っ黒な人間が出るのを忘れて。
うなだれた先に赤ん坊の真っ黒の人間がはいはいして、祖父の足にしがみついていたのです。
驚いた祖父は岩から転げ落ちました。
木にくくりつけた縄を引っ張って降りようとしたのですが重くて動きません。
木の方をみると、上に真っ黒な人間が数人座っており、にっこりと赤い口と真っ白の歯を見せて笑っていました。
祖父が鉈を投げつけるとけらけらと笑いながら鉈をよけるように木の束から降りました。
祖父は逃げるように下山し、親方の元へいきました。
そのことを話すと、親方は何も言わずに神道さんと呼ばれる神職の人の所へ連れて行き、ことの顛末を話した後にお祓いをしてもらいました。
そして親方は、後日お供え物を沢の入り口にあるお地蔵様にあげて、ちゃんと手を合わせてこいと言われました。
言われた通りにした後、親方に呼び出されしかりを受けました。そのときに、「おまえは沢の道を上るなと言われたのに上ったろう。あの沢の上は面倒だからいかないということではない」
「みんな行きたくないから行かないんだ」と言いました。
そして「おまえが上った場所を言ってみろ」と言われたので
祖父は「小助沢の道を上りました。上るなと言われた沢です」と正直に答えました。
すると「都合上、小助沢とみんなが呼んでいるだけでおまえが上っていた沢の名前は」
「本当は子捨沢という場所なんだよ。」と親方は言いました。
そのことを聞いた祖父は血の気が引きました。
親方は、「昔、食い扶持が足りなくなった時に、しょうがなく親はその沢に子供を捨てに行ったんだ。少しここで待ってろとか言って、迎えにくるふりをして捨ててきたんだよ。まだ歩けない乳飲み子も捨てたやつもいる」
と、悲しそうに言ったそうです。
祖父はあの真っ黒な影のような人間は、あそこに捨てられた子供達だったのだとわかった瞬間に、自然と涙が零れてしまったそうです。
祖父は林業をやめた後にタクシー会社や乳業店を開きました。
自分の会社を持つことが祖父の夢だったそうです。
会社を始めてしばらくたって資金的に余裕ができた頃、祖父がお地蔵様と魚や野菜やおにぎりとお味噌汁が彫られた石を、沢の入り口に置いたそうです。