異常な境遇 その2

ある日、不意に夜中に目が覚め、何だか嫌な感じがして眠れなくなった。隣では妻と2才になる子供が眠っている。しばらくその姿を見ている内に、何か視線のようなものを感じて天井の隅に目をやった。そこに濃い影ができていた。部屋は豆球の明かりでほんのり明るいのだが、その一角だけが光が届かないかのように真っ暗になっている。目を凝らしてみると、その奥で何かが蠢いているようにも見えた。不意に母親の言葉を思い出した。

『黒いやつが真っ先に見つける』『黒いやつが来た』
私はバカげた考えを振り払おうとしたが、上手くいかなかった。眠れぬままに、そこを見つめながら朝を待った。影は外が明るくなると次第に薄れていった。私は寝不足のまま仕事に向かった。翌日の夜も影は現れた。相変わらず、そこからこっちをじっと見ているような視線を感じる。その夜も眠れなかった。

次の日は仕事が休みだったため、私は病院へ行った。医者は「ストレスからくる幻覚だろう」と言い、「しばらく仕事を休んではどうか?」と提案した。私が「それはできない」と言うと、薬を出してくれた。薬を飲んだにもかかわらず、夜中にまた目が覚めた。部屋の隅を見ると、黒い影がまたこっちを見ている。気のせいか、前の日よりも大きくなっているように見えた。

ふと、背中に気配を感じて振り向くと、茶の間に鎧姿の武士が立っていた。面当てで顔は見えないが、こっちを見ている気配は感じる。すんでのところで悲鳴を堪えた。「幻覚だ、幻覚なんだ」と必死で自分に言い聞かせながら、妻と子供の方を見た。妻の布団の上に、白い着物を着た老婆が座ってこっちを睨んでいた。私は意識を失った。

私の幻覚は日に日に酷くなっていった。鎧武者や老婆だけではなく、小さい子供や犬のような獣も見えるようになった。医者に相談しても、「幻覚だ。とにかく仕事を休め」と言われるばかりだった。「あなたの母親や寺の古い記憶が、類型的な幽霊の姿を作り出している可能性もある」とも言われた。確かにそう言われればそんな気もする。私はまた薬をもらって病院を出た。

仕事を休むことを考えながら自転車を漕いだ。家の近くの大通りにある横断歩道で信号待ちをしていると、正面から妻が子供を前に乗せて、こっちへ向かってくるのが見えた。買い物に行く途中のようだった。 妻は私を見つけると、笑って手を振った。それ見た子供も、こっちに向かって手を振っている。二人を乗せた自転車は、そのままのスピードで交差点を横切った。信号はまだ赤だった。私の目の前で、妻と子供は直進してきたトラックに轢かれた。

そこから先の記憶は酷く曖昧だ。病院や警察関係者、妻の両親、いろんな人が目の前に現れたけれど、
何を話しかけられ、何を話したのか、全くといっていいほど憶えていない。気がつくと夜で、私は自宅の寝室で3人分の布団を敷き、自分の場所に横たわって、妻と子供の居ない布団をボンヤリと眺めていた。不思議に涙は出なかったと思う。

天井を見ると影があった。だが、そんなことはどうでも良かった。振り向けば鎧武者や老婆もいるのだろう。それがどうした、というような気持ちだった。恐怖など感じなかった。また、空の布団のほうを見た。
妻の布団にあの老婆が座っていた。その時、初めて感情がこみ上げてきた。物凄い怒りと悲しみだった。何でお前がそこに居るんだ、と。そこに居て良いのは妻と子供だけだ、ここに居て欲しいのは家族だけなんだ、と。妻や子供、母親と父親、いたかどうかもわからない姉。 私は叫んだのかもしれないし、暴れたのかもしれないけれど、朝が来ると部屋はそのままで、足下には3組の布団が整然と並んでいた。

あれから10年以上の時が過ぎた。私は相変わらず長距離ドライバーをしながら、全国を転々としている。今年で36になるが、未だに独身だし、結婚するつもりもない。死ぬまでこの暮らしを続けようと思う。

相変わらず心霊現象には否定的だ。あの時の事も偶然と幻覚の所産だと、そう思いこんでいる。 死後の世界や怨念なんか信じていない、信じたくもない。死にさえすれば、意識や感情、思い出も何もかもが無くなるのなら、こんな楽なことはない。けれど、もし、本当に死後の世界があって、私が幽霊になったなら、あの世で私の家族を奪った霊を見つけだし、ぶん殴るつもりだ。

『異常な境遇 その2』へのコメント

  1. 名前:7c : 投稿日:2016/10/25(火) 20:20:58 ID:gzMDk1MDE

    この男が亡くなった後、見えていたモノと妻と子の事故の間に何も関係が無かったとしたら、魂が壊れちゃいそうでツライ

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