私は蜘蛛が大嫌いです。それこそ、洒落にならない程の恐怖を感じます。何故でしょうか。
これは小学校に上がる前の話です。
兵庫県のSというところにあるマンションに住んでいました。マンションは敷地内に3棟あったと思います。私の家はそのうちの1棟の、8階の一番奥にある部屋です。8階には、私と同い年の男の子が私を含め3人いて、皆仲が良く、いつもマンション内の公園や、敷地内の色々な場所で遊んでいました。場所によってはガガンボや蜘蛛が沢山いて、気味が悪い。マンションの背後には大きな山がそびえているせいか、虫がやたらと多いマンションでした。
さて、仲良し3人組とは別に、たまに一緒に遊ぶT君という男の子がいました。T君はマンションの1階に住んでいて、少し内気な感じの子です。外に出て遊び回るより、家の中でおもちゃで遊ぶのが好きだったようで、外遊びが好きな私達とは、1ヶ月に数度遊ぶ程度の仲だったと思います。
ある時、私一人でT君のうちに遊びに行きました。マンションの一階は少し薄暗いのです。さらにその日は曇りだったので、廊下が夜のように暗く、T君の家に入るまで、かなり心細かったのを憶えています。着くと、T君とT君のお母さんが出迎えてくれ、ホッとしました。T君は救急車やパトカーのミニカーを取り出してきたので、子供なりにストーリーを仕立てて、2人で遊んでいました。
しばらく遊んでふと視線を上げると、T君の部屋の箪笥の上に、見慣れないおもちゃが置いてあることに気が付きました。下から見上げる限りでは、レールが立体的に交差した造形しか判別出来ませんが、いかにも面白そうなおもちゃです。「あのおもちゃで遊ぼうよ」と、T君に頼みました。するとT君は素っ気無く「壊れてるから遊べないよ、君が壊したんじゃないか」と言います。吃驚して、「嘘だあ。あんなおもちゃ見たことないよ」と言い返すと「この前遊びに来た時壊したじゃないか」と言い張るのです。全く記憶にない事です。
ちょうどその時、T君のお母さんが部屋に入ってきて、箪笥に洗濯した服を仕舞い始めました。「T君が、僕があのおもちゃを壊したっていうんだよ」と、T君のお母さんに訴えました。「だって○○君、この前遊びに来た時壊したでしょう」と、T君のお母さん。当時4歳か5歳だったと思いますが、私は3歳位からの記憶がわりとハッキリと残っています。既に物心ついていましたので、友達のおもちゃを壊したかどうかくらいは判断出来ます。断じてそんな記憶はありませんし、そもそも、そのおもちゃを見るのは初めてなわけです。
「どうしてそんな事言うの?ぼくは壊してないよ!」
「この前遊んでて壊したじゃないか」
「そうよねえ、○○君が壊したから遊べなくなったのよね」
その時は勿論この言葉を知りませんでしたが、生まれて初めて『不条理』を感じた瞬間だったと思います。 しばらく必死に記憶を辿って、以前にT君のうちに遊びに来た時の事を思い出そうとしてみましたが、やはり何も憶えていませんでした。その場にいたたまれなくなり、自分のうちに帰りました。
私にとってはかなりショックな出来事で、帰宅しても親に話せません。その後間もなく、私達一家は東京へと引越ししてしまったので、T君のおもちゃのことは、不可解なままになってしまいました。その後、私は叔母から誕生日の贈り物に、幼年向けの『ファーブル昆虫記』をもらい、大変に気に入って何度も何度も読み返していたので、虫がとても好きになりました。
引っ越した先は東京にしては自然が多い地区でしたので、外に出ては色んな虫を捕まえて遊んでいました。ただ、どうしても蜘蛛だけは好きになれません。好きになれないどころではない、蜘蛛の事を考えるだけで身の毛がよだつ思いがします。ファーブル昆虫記にも蜘蛛の話は載っていて、お話としては非常に面白いのですが。小学校、中学校、高校と、いつまでたっても私の蜘蛛嫌いは直りませんでした。
ある日、幼い頃育ったマンションでの日々について、母親と思い出話を語ることがありました。 色々懐かしく思い出しながら話しているうちに「お前は今でも蜘蛛が大嫌いだけど、子供の頃は本当に酷かった。夜中にいきなり、『蜘蛛は嫌だーっ!』って叫び始めるんだよ」
先に書いた通り、私は自分ではわりと小さい頃の記憶がある方だと思っている。でも、夜中に泣き出したという記憶は全然ないわけです。母親が語るには、私の泣き叫ぶ様があまりにも真に迫っていて、まるでそこに本当に蜘蛛がいるかのように怯えていたそうです。寝ぼけたという様な生易しいものではなく、錯乱状態といってもよいぐらいで、気でも違った様に見えた。
そんなことが何度も続くので、病院に連れて行った方が良いのではと、悩んだほどだそうなのです。
そこで少し、自分の記憶があやふやになってきました。いくらなんでも、そんなことがあったら憶えているんじゃないか?でも全く憶えていない。ハッとしました。こういうことは前にもあったなあ。そうだ、T君のおもちゃのことだ。そこで何か思い出しそうになり、T君の薄暗い部屋のイメージが、頭の中にフラッシュバックしてきました。でも、はっきりと思い出す前に、記憶の糸がフッと途切れてしまい、それ以上は思い出せません。その時母親が「あのマンションは裏手が山だったから、大きな蜘蛛がたまに出たんだよねえ。大人の手くらいあるやつ。あんな大きな蜘蛛、子供が見たら、すごい大きさに見えるだろうねえ」と言いました。
その瞬間、私の頭の中に幾つかのイメージが同時に駆け巡り、気が付くと私は頭を抱えてウゥと唸っていました。
すんでのところで叫び声を抑えていました。T君の部屋で走り回っている時に転んで、あのレールのおもちゃの上に倒れこむ瞬間。床を叩きながら泣いて私を非難するT君。T君に、「どうすれば○○君を許す?」と聞くT君のおかあさん。T君のおかあさんが、彼女の手より大きな蜘蛛をつかんで僕の口に…
私の母親は驚いたことでしょう。私は逃げるように自分の部屋まで走り、そのまま布団をかぶって、頭の中に蘇ってくるイメージを消そうともがきました。その日は朝まで眠れずに記憶と葛藤し、その後数週間は、日常生活の合間に蘇ってくる記憶に苛まれ続けました。なにしろ人と会っていても、いきなり頭を抱えてうめき始めるわけです。頭がおかしくなったと思った人もいたでしょう。
「蜘蛛を食べれば、許す」
「じゃあ、蜘蛛とってくるね」
冗談かと思いきや、数分も経たぬうち戻ってくるT君のおかあさん。
「廊下に巣を張ってる蜘蛛を取ろうと思ってたんだけど、すごい大きな蜘蛛がいたからそっちの方を取って来た」
「うわっ、でっかー!」
「ほーら○○君、食べなさい」
今では分かる。T君の母親は、本気で蜘蛛を食べさせようとしたわけじゃない。でも、彼女の目は、加虐の喜びに満ちていた。彼女はひとしきり大きな蜘蛛を私の口のまわりになすりつけると、ひょいと窓から蜘蛛を捨て「おかあさんに言っちゃだめよ!」と、恐ろしい顔をして言った。そしてT君にも、「これで○○君を許してあげなさい!」と叱りつけた。
これが私の、蜘蛛を嫌いになった理由です。
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ああ
大好物を、意地悪で食べさせてもらえなかったからか
食べ物の恨みは恐ろしいなあ(w