これは私の実家がある地域に纏わる伝承です。故に情報を隠しても無駄なので、表にして書き込もうかと思います。私の実家は、福岡県宗像市という所にあります。この時点で、ピンと来る方もいらっしゃるでしょう。
《山田の六地蔵》と言われれば、分かる方も居るかと存じます。既出でしたら、すみません。今日はその話をさせていただこうかと思いますが、宜しいでしょうか?では、お話させていただきます。
1551年、当時、この地を納めていた宗像氏の主君である大内氏が逆臣のはたらいた謀反により討死。それに殉じた宗像氏男に代わり、その姪にあたる照葉の子、鍋寿丸を第八十代大宮司宗像氏貞としました。しかし、照葉は氏男の側室であった為に、宗像氏一族は、謀反人である陶晴賢の命令に従おうと言う者と、正室である菊姫に養子か婿を取らせて跡継ぎにしようと言う者に別れました。
このことを受け、業を煮やした陶春賢は、菊姫の養子として名が上がっていた者とその父親を殺害し、菊姫とその母を島流しにせよと命を下しました。このことを知った宗像家の重臣は、養子とその実母を沼口に、菊姫とその母を山田の里(私の実家のある地域)に匿いました。しかし、このままでは自らの地位が危ぶまれると踏んだ照葉は、家臣に菊姫を殺せと命を下しました。
翌年3月23日、山田の里で菊姫とその母親、並びに侍女4人を含めた計6人は惨殺され、照葉の地位は守られることになりました。いかに戦国乱世とは言え、婦女子6人を一度に惨殺するということは、当時からしても類を見ない惨事でした。それ故に、その6人の怨念は凄まじく、怨霊となり惨殺に加担した者が次々と怪死を遂げ、そしてその一族までもが次々と死に絶えました。ついには、呪いにより宗像大宮司家を滅亡させたと言います。その後、その6人は地蔵尊として増福院に安置され、ようやく呪いはおさまりました。
ですが、私の実家の地域にはこんな言い伝えが今も語り継がれています。菊姫が殺された3月23日の夜には首の無い菊姫の身体が、首を探し回っていると。そして、次の年には身体の無い菊姫の首が、身体を探し回ると。「今年はどっちでしたっけねぇ……。」私は、この話を実家に帰るタクシーの中で運転手に聞かされました。実家に帰るのが鬱になりました。
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九州一の怪談、山田事件の菊姫の話
宗像大社の大宮司家の没落に纏わる祟り話