あの時、呼び止めなければ

家族で伊豆の下田方面へ行った時の事です。下田の町に入る直前に左に曲がる交差点があり、そこを左折すると有名な岬が有ります。季節は冬。確か水仙が沢山咲いているということで、そこに向かいました。


途中、天皇さんのご用邸とかが有り、その広い敷地に沿って進むと駐車場に着きました。海岸を歩きながら水仙を見ましたが、当日風が強く、物凄い寒さで早く帰りたいと思っていました。しかし、子供は元気です。

「あそこに灯台があるよ。」
私の手を引いて、小高い岬の上へと続く階段を上って行きました。妻と下の子は、寒さのため車に戻っています。階段を登り終わると、そこは芝生に覆われていて左手は岬の先端となり、灯台が有りました。2人は灯台へと向かいました。もうすぐ灯台に着こうという時、
「ウサギさんがいるよ。」
子供が叫びます。

子供が言う方向を見ると、確かにウサギの耳が見えます。灯台の周りには欄干が有るのですが、岬の最先端の所の欄干の下(踊り場の下)からウサギの耳が”ぴょこん”出ています。きっと、岬の先端の欄干の下にちょっとした遊び場が有り、そこにウサギがいて耳だけ出していると思っていました。

子供は、夢中で走り出します。でも、何か嫌な気がして、「ちょっと待って。」と止めましたが、子供は、聞いていません。「待ちなさい。」大声を上げると”びくっ”とした様子で子供は立ち止まり、恨めしそうな顔をしてこちらを見ます。

私も怖くなるような物凄い恨めしそうな顔でした。私は、子供の所へ駆け寄り、手を握りました。
「おとうさん、どうしたの。」
「危ないから、怒鳴ったんだよ。」
「怒鳴ったの?」
「えっ」
取りあえず、手をつないで灯台へと向かいました。既に、ウサギの耳は見えません。

「ウサギさん逃げちゃったね。」
残念がりながら灯台まで行き、灯台の周りの踊り場に立って欄干の所に行こうとした時、”ゾッ”としました。欄干の下は、直接断崖絶壁となっていて遊び場など有りません。小動物がとどまるところなど有りませんでした。

何メートル下には崖の凹凸が有り、ウサギが休める様な所は有りますが、鳥でもない限り降りることは出来ません。それよりも、何故、ウサギの耳が見えていたのかです。欄干の近くに行くのも嫌なので、そのまま灯台を後にしました。車に戻ってその話を妻にしましたが、気のせいだよと言われてしまいました。

「でも、良かったよ。○○がウサギの所へ行こうと灯台の方に走って行ったのを止めて。でも、大きな声を出したからびっくりしたろう。」
「ぼく、走らないよ。ずっと手をつないでいたじゃない。」
子供が言うことなのでと思いましたが、本人は走った記憶、怒鳴られた記憶は全然無い様でした。その時、立ち止まった後の恨めしそうな顔が思い出されました。

今思うとあの顔は、子供の顔でなかった様な気がします。あのまま、呼び止めなければ。考えたくありません。

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