これは、青木ヶ原樹海を深夜にドライブしていた時体験した、背筋も凍るお話。
その日、わたしは友達と二人で夕食を食べ、そのままドライブを楽しんでいた。わたしたちの車が青木ヶ原樹海にさしかかったのは、深夜2時を過ぎていたと思う。樹海の中を貫く国道は、時折、トラックとすれ違うぐらいで、車の通りはほとんどなかった。鬱蒼と茂る樹海の木立に左右を挟まれた国道は、街灯も無く、本当の暗闇。山梨県側に向って、真っ暗な樹海の道路をしばらく走ったときだ。突然、車の調子が悪くなった。
アクセルをふかしても、スピードが上がらない。バッテリー系統も弱くなり、車が止まりそうになったのだ。こんな真夜中に、樹海の真ん中で故障してしまうと思うと、普通ではいられなかった。緑の青々とした樹海は、昼間はとても気持ちが良い。だが、いったん日が暮れると、本当に不可解な何かが潜んでいるように感じられる。車が完全に止まってしまう前に、わたしたちは車を路肩に停めた。かろうじて回っているエンジンの音を聞き、友達は、このままエンジンを切らないほうがいいと言った。エンジンを切ってしまうと、かからなくなってまうかもしれない、と言うのだ。
季節は晩秋だった。夜の青木ヶ原樹海は深々と冷えてくる。万が一助けが来なかった場合に備え、せめてエアコンだけでも使えるようにしておいた方が得策だった。とにかく、助けを求めるために電話をかけなくてはならない。当時は携帯電話がやっと普及し始めたばかりだった。樹海の中は電波の状態が悪く、携帯で電話をかけるのが難しかった。仕方がないので、わたしは公衆電話を探しに、友達を車に残したまま夜道を歩き始めた。友達は、エンジンが完全に止まらないよう、定期的にアクセルをふかす役目だ。
樹海の道は幾度も通っているので、確かこの近くに、観光施設があるのをわたしは知っていた。観光施設の駐車場には、電話ボックスがあったはずだった。10分ほど歩くと、電話ボックスの明かりが見えた。こんな時間だから、勿論、観光施設には誰もいないし、電気も消えている。樹海の暗闇の中で、電話ボックスの電気だけが白々と灯されていた。その明かりを頼りに足早に歩き、電話ボックスに着いた時だ。わたしは一瞬、足が止まった。
電話ボックスの中に、小学生ぐらいの女の子が、下を向いてうずくまっているのだ。深夜2時過ぎの暗闇の樹海に、女の子がいる・・・どう考えても不気味だった。だが、その女の子は妙に現実味があって、幽霊や亡霊のようには見えなかった。それに、その電話ボックスで車の故障を知らせなくてはならない。わたしは、少し警戒しながら女の子に声をかけた。すると女の子は、うずくまったままわたしを見上げた。
デニムのミニスカートに、黄色いサンダルを履いている女の子の顔には、大きなアザがあった。右目の下あたりに、殴られたような青アザがあったのだ。何かの事件に巻き込まれたんじゃないか?・・・幽霊だの亡霊だの思う前に、リアルにそう考えた。一体何があったのかと訊ねると、少女はこう答えた。
「お母さんが帰ってこない。」
少女の母親は、娘を駐車場に残したまま、樹海の中に入ったきり戻ってこない、と言うのだ。
わたしはゾッとした。自殺、という二文字が頭に浮かんだ。少女は両膝を抱え、また下を向いてしまった。その姿があまりにも哀れで、そのまま放っておけなくなった。わたしはとりあえず、少女の座り込んでいる電話ボックスに入って、同級生がやっている自動車整備工場に電話をかけた。真夜中だったから中々出てくれなかったが、しつこく何十回も鳴らすうちに、奥さんらしい女の人が眠そうな声で電話に出てくれた。わたしは車の故障を告げ、ついでに、警察に電話をしてくれるよう頼んだ。奥さんは、そこで待っててください、と言って電話を切った。
わたしが受話器を置いた瞬間だ。ふと視線を移すと、少女が電話ボックスの中にいない。いつの間に外に出たのか、少女は電話ボックスの前をフラフラと横切って、真っ暗な樹海の方へ歩いていく。わたしは慌てた。母親とはぐれ、真夜中の樹海に取り残された恐怖で、頭がおかしくなってしまったんじゃないかと心配になった。急いで少女を追いかけたが、意外とその足は速く、どんどん樹海の暗がりの方へ向って行く。いくら呼び止めても、少女は立ち止まろうとしない。それどころか、何かに引き寄せられるように樹海の木立の中へ入って行くのだ。
暗闇に目が慣れてきたこともあり、わたしは駆け足で少女を追った。樹海は溶岩大地にできた森だ。未整備の場所には大小様々な穴がぽっかり口をあけている。こんな真夜中にそこに落ちたら、怪我どころでは済まない。樹海に入りかけた少女の腕を、わたしがやっと掴もうとした時だ。わたしの二の腕を、後ろから強く引っ張る者がいた。
わたしはギョッとして振り返った。私の腕を引っ張ったのは、車に残っているはずの友達だった。暗がりでも、その友達の顔つきが異常なのが判った。何やってんだ!!友達は声を荒げた。
わたしは驚いたが、それより、樹海に入ってしまった少女の方が気になった。友達の手を振り払い、わたしが樹海の中に目を凝らすと、少女の姿はどこにも無かった。女の子が樹海に入って行った。母親を探しに行ったのかもしれない。わたしの言葉に、友達は不可解な顔つきをしたが、とりあえず、わたしを電話ボックスの明かりの近くまで引っ張って行った。
その時のわたしは、とにかく狼狽していた。目の前で、小さな女の子が真夜中の樹海に入って行ったのだ。これが落ち着いていられようか。少女がどうなるかは歴然としている。だが、友達はもっと狼狽していた。
わたしが電話をかけに行ったきり、二時間以上も戻ってこないので心配していた、というのだ。わたしは ハッ、と我に帰った。わたしが車を離れてから、せいぜい30分程度しか経っていないはずだ。二時間以上経っているとは、どういうことだろう?
電話ボックスにいた少女のことも気になるが、とにかく、外部に連絡した方がいい、友達が冷静に意見した。わたしが同級生の整備工場にすでに電話したこと、そこの奥さんが、その場所で待っているように指示したことを伝えると、友達は眉をひそめた。整備工場の奥さんは出産の為に実家に帰っていて、その家に女の人は誰も居ないはずだ、というのだ。
わたしたちは気味が悪くなって、もう一度、整備工場に電話した。電話に出たのは同級生だった。彼は、すぐにこちらに来てくれると答えた。電話を切る前に、わたしたちは、さっき電話した時に対応してくれた女の人について訊ねてみた。同級生はわたしたちの言葉が理解できない様子だった。今夜、電話が鳴ったのは一度きりだし、自分以外の人間は家に居ない、というのだ。
私たちは電話ボックスを出ると、わき目もふらず車を目指して走った。とてもじゃないが、そんな場所にいられなかったからだ。最初の電話に出たのが誰だったのか、あの少女が何者でどうなったのか、未だに謎のままだ。