樹海の女

もう何年も前、わたしは山梨県の本栖湖へ夜釣りに出かけた。夜釣りは禁止されていたので、わたしは人目につかないような場所を選んで釣りを楽しんだ。夜の11時を過ぎた頃、湖畔の狭い砂地を歩く足音が聞こえたので、わたしは急いで釣り道具をしまうと、車に戻った。監視員が夜釣りの取り締まりにでも来たのかと思ったからだ。


本栖湖は富士の樹海の中にある湖だ。民家も少なく、湖畔の道路は体面通行がやっとできるくらいの道幅で、街灯もほとんどない。道路のすぐ左にはせりたった山、右には本栖湖があるといった具合で、すれ違う車もいなかった。本栖湖の輪郭に沿う湖畔の道路は曲がりくねっていてカーブもキツイ。街灯もないので、満月でも出ていなければ10m先はほとんど見えない。少しスピードを出し過ぎるとカーブを曲がりきれずに湖へ落ちてしまいそうだった。

車を走らせてからしばらく経った時、わたしはその夜はじめて歩行者を見た。車のハイビームに照らされた道路の先に、こちらに背を向けた状態で人が歩いている。歩き方からして、それはどうやら若い女性であるようだった。ショートカットで、短めのTシャツ、そしてジーンズ姿の若い女性が、ひとりでバックも持たず、夜中の湖畔を歩いているのだ。この辺にはキャンプ場もなく、民家も遠い。夜中に若い女性がひとりで歩くような場所ではない。ちょっとヘンな気がしたが、わたしは30㎞ぐらいのスピードでその女性の横を通り過ぎようとした。

通り過ぎざま、少し気になって横目で女性を見ると、彼女もこちらを見ていて、目が合った。その瞬間、背筋を悪寒のようなものが走った。女性は確かに人間の顔をしていたが、あんなに恨みがましい目はそれまで見たことがなかった。それで気になって、もう一度女性の姿を確認しようとサイドミラーを見ると、彼女はどこにもいない。車を停めて後ろを確認しても、誰一人歩いている者などいないのだ。道路の右は本栖湖、左は人間が入ることもできないような山肌。女性が隠れられるような場所もない。

わたしは慌てて車を走らせると、逃げるようにその場を離れた。今でも夜ひとりで車を運転している時、サイドミラーやバックミラーを見るのがちょっと怖い。あの女性の恨みがましい目が写っていたらどうしようか、なんて想像してしまうのだ。

メールアドレスが公開されることはありません。