「山の神さん」に会った話

俺がまだガキの頃、家の近所には深い森があった。森の入り口付近は畑と墓場が点在する場所で、畦道の脇にクヌギやクリの木に混じって卒塔婆や苔むした無縁仏が乱雑に並んでいた。その墓石の行列が途切れると、木々の間に森への入り口がまるで洞窟の様にしてポッカリと口を開けているのである。小学校4年の夏休みも終わりに近付いた頃の話である。




その夏休みの間、俺は友人三人と毎日の様に墓場を通りぬけ、森に分け入ってはカブトムシ採捕りと探検に明け暮れていた。危険な場所であるから入ってはイケナイと学校からも家族からも注意されてはいたが、そんなものは溢れる好奇心に対する何の抑止力にもなりはしなかったのである。

その日。八月にしては異様に涼しい日だった事を覚えている。森の手近な所を探検し尽くした俺達は、誰が言い出したのか、今まで入った事のない、山端へと続く森の最深部へ行こうという事になった。生い茂る草を薙ぎ倒しながら、道無き道を突進した俺達はやがて不思議な感じのする場所に出た。

そこは25Mプール程の広場で、周りには巨木が何本も聳えていた。巨木は競うように枝葉を伸ばし、辺りは八月の昼間にもかかわらずやけに薄暗い。天を覆い尽くすかの如く広がった葉の隙間の僅かに覗いた青い空から、木漏れ日が落ちていた。その木漏れ日が落ちる広場の地面は、道も無い様な森の中だと言うのに、まるで掃き清められた様に綺麗で、雑草一本生えてはいない。

俺達は言い知れぬ恐怖を感じ、誰からともなく帰ろうと言い出した。その時である。今まで狂った様に鳴いていた蝉の声が突然止み、世界から全ての音が消えた。続いて視界から色彩が完全に失われ、まるでモノクロームの映画を見ている様な状態になったのである。
慌てて友人の方を向くと彼らも呆然と立ち尽くしている。後で聞いた話だが、彼らも俺と同じ様に音と色とが完全に失われた状態であったらしい。

俺は焦りに焦った。不安と恐怖でオカシクなりそうだった。逃げよう。そう考えたのは、暫く呆けた後だったと思うが、いざそう考えると、今度は体が全く動かないのである。足が二本の杭になって地面に突き刺さったかの様だった。

絶望に打ちのめされながらも、なんとか体を動かそうともがいていると、ふと、何かキラッ光るものが視界に入った。金色に光る雪のような物が辺りを舞っていたのである。色彩の失われた世界の中で、その雪だけがキラキラと光っている。そしてその雪の中をライオン程の大きさをした金色の狐が、木々の間から姿を現し、こちらに向かって来たのである。

狐は悠然とした足取りで広場を横切り、俺達に気を留める様子もなく、また巨木の間の闇へと消えた。その間僅か一分程の出来事だったと思うが、俺には異様に長く感じられる一分だった。狐が消えてしまうと、まるで何事も無かったかの様に蝉が再び鳴き始め、視界にも鮮やかな晩夏の色が蘇った。俺達はわけのわからない叫び声をあげながら走り出した。

ススキや棘で体中傷だらけになりながら森を抜け出した時、漸く俺達は助かったと思った。家に辿りついた後、体験した出来事を祖父に話すと、祖父は「それは山の神さんや」と言い、そのあと少し怖い顔で「もう二度と行くな」と続けた。

祖父のイイツケを頑なに守った訳でもないが、この話に後日談は何も無い。後で行ってみたがそんな場所は無かったとか、恐ろしい言い伝えが有った等の胸のときめく様な話は一切無いのである。俺達は会うたびにその話をしたし、もう一度行ってみたい気持ちも無くは無かったのだが、不思議ともうあの場所へ行く事は無かった。

やがて時は流れ。ある年、森は突然消えた。宅地造成で森は切り開かれ、貫くように大きな道が通った。畑は潰されて、畦道はアスファルトに変わり、墓場は纏めて別の場所に移されて、その上にはペンション風の家が建っている。狐狸だけが通った道を、自動車が行き交い、俺達が狐を見たあの場所も多分今はもう無い。

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