自分が小学校に上がるか上がらないかという頃、母親が事故で死んでしまった。残された父親は、今まで家事一つこなしたことがないような前時代的な人間。当然父一人子一人の生活が上手く回っていくわけがない。しかし母親には親兄弟もなく、父親の両親も既に他界。兄弟は子沢山ということで、自分は父方の親戚の家にしばらく預けられることになった。
その親戚の家はまさにド田舎。隣の家まで数十メートルはあり、見渡す限りの緑緑緑。煙草か何かの畑があって、なかなか大きな屋敷だった。住人は中年と老人の間のような夫婦だけで、初対面の時の肌の浅黒さと手のふしくれをよく覚えている。子どもが皆独立してしまった夫婦は自分をとても可愛がってくれた。大して懐くわけでもない、笑顔をふりまくわけでもない子どもに随分親切にしてくれたと思う。
しかし自分は意味もわからず、ただ毎日死にたい死にたいとばかり考えていた。その家の中庭には小さな社があって、おばさんは毎日お米を供えていた。それは裏の山にある神社か何かと同じ神様だと教えて貰った覚えもあるが、自分はその社の前で日がな一日うずくまって、死にたいとばかり考えていた。だからバチが当たったのではないかと今にして思う。
ある日、二人が畑仕事に出ている間、何を思ったか唐突に外に出たくなった。自分でも理由はわからない。ただこの家からさっさと出て遠くに行ってしまいたくなった。昔の自分にとって遠くに行くとは死ぬというような感覚であったから、遠くに行きたいという思いはいつもと同じだったが、どうしてもこの家から早く出たくてたまらなくなった。今まではそんな気力もなかったのに。むしろ遠く、ではなく、絶対に消えたくなった。
気が付けば、どこか林道を歩いていた。着の身着のままの格好で、足元は母親が買ってくれた運動靴。その日はカラッと晴れた夏の日だった筈なのに、そこは白く湿っていた。ずっと自分が砂利を踏む音しかしなかった。いきなり水の音がした。道が無くなって川が流れていた。大きな石がゴロゴロあって、深緑と青が混じったみたいな山の川だった。向こう岸の色は黒かった。そこで初めてどうしようと思い、川べりに近づいて下を見てみた。その時見た運動靴は真っ白だった。その白さが脳裏に焼きついている。どうにかして渡れないないかと川を見渡したが橋はない。仕方なく浅瀬を歩いて石から石へと飛び移ってみた。もうこれ以上は動けないという所まできて、川の色が変わっていることに気が付いた。向こう岸から川の色が薄くなっていた。自分の両手を広げたくらいの幅で、それは水の下に白い布が揺れているようだった。何と言うか、染物の布を川の中で流しているような雰囲気。それがどんどんこちらに近づいてきて、急に怖くて怖くてたまらなくなって、慌てて来た浅瀬を飛び戻った。
途中で転んで水浸しになったり、擦りむけた膝が痛かったけれど、何故か必死に、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいお母さんと謝り続けた。
また元の林道に戻った時、酷く疲れて立っていられなくなり、膝を抱えて座り込んだ。濡れた運動靴は何故か汚れておらず、泣きながら誰か迎えに来てくれるのを待った。
いつの間にか眠ってしまったのか、揺り起こされて目が覚めた。おじさんが目の前にしゃがみ込んでいた。自分は家の玄関の前にいた。服も濡れていない。怪我もしていない。運動靴は砂埃で薄茶色に汚れていた。裏の山に大きな川は無かった。