23年程前の話。俺の地元は四国山脈の中にある小さな住宅地というか村で、当時も今と変わらず200人くらいが住んでいた。谷を村の中心として狭い平地が点在しており、そこに村人の家が密集して建っているんだ。その村の中心から少し離れたところ、山の斜面の途中にぽつんと一軒、古い平屋の家が建っていた。そこがジロウさんの家だった。ジロウさんは20代半ばと言ったところで、家の前にある猫の額ほどの畑を耕して暮らしていた。背はうちの親父よりもだいぶ高く、恐らくは180センチくらいあったんじゃないだろうか。子供の目線だからはっきりとはわからないけども。筋張った体に彫りの深い顔立ちをしていて、髪は肩まで伸びていた。その髪は良く手入れされていたようで、さらさらと風に揺れていたことを思い出す。
俺はジロウさんに懐いてたから良く遊びに行った。俺の村から小学校までは遠くて、友達は皆街の方にいたから、遊び相手がいなかったということもあるだろう。小学校までは毎日爺ちゃんの軽トラで送り迎えをしてもらってた。ジロウさんは結構年取った爺さんと一緒に暮らしていた。総白髪でがりがりに痩せた爺さんは、いつも黒い服を来てジロウさんの側に立って、何をするでもなく、彼のすることをにこにこしながら見ているだけだった。それは、俺がジロウさんと遊んでいるときも一緒だった。村に一個しかない商店に一緒にお菓子を買いにいくときにも、じいさんはすたすたついてきた。ジロウさんの家から平地にある商店まで往復するには、長くて急な坂道を上り下りしなければならなかったんだが、爺さんはいつも遅れずについてきた。俺はガキだったから走ってたし、ジロウさんはデカイから歩くのは早かったはすなのに。そういえば爺さんが喋るのを聞いた記憶がない。
ある夏の晩。ジロウさんがいきなり家に来た。俺は2個しかチャンネルが映らないテレビで、何かしら観てたところだった。時刻は覚えてない。ジロウさんは玄関の中に入ってきたけど、一緒に来てたあの爺さんは戸口の外に立ったままだった。ジロウさんは親父とお袋と何か話をして、15分くらいで帰って行った。両親はなんだか落ち着かない様子で、ひそひそ話してたっけ。そうして、爺ちゃん婆ちゃん含めた四人で、遅くまで話をしていた。
ジロウさんがウチに来たその週、突然村人全員が村の集会所に集ることになった。村人が車座になって座った真中に、ジロウさんとジロウさんの爺さんだけが立ってた。爺さんはいつも通りの格好だったけど、ジロウさんはなんだか裾の長い白い着物を着ていて、手には先に輪っかづいた鉄の棒を持っていた。着物の脚の部分は絞ってあって、足には白い足袋を履いていた。大人たちはなんだか怯えているような様子だった。ジロウさんは大人たちに
「ここでじっとしているように、自分が戻るまで決してここから出ないように」と言い残して、爺さんと二人で集会所を出て行った。俺はその後眠ってしまった。
何時頃かわからないけど、大人たちがざわざわ言うのを聞いて俺は目を覚ました。声のする方を見ると、ジロウさんが帰ってきていた。ジロウさんはびっしょりと汗をかいて、髪の毛が顔にべっとりと張り付いていた。白い着物の胸ははだけ、腰のあたりまで泥がびっしりこびりついていた。中でも良く覚えているのは、彼の両肩にある赤黒い泥の跡が、小さな噛み跡のように見えたことだ。大人たちは口々に、ジロウさんに礼を言っていたようだ。ジロウさんはそれにいちいち頷きながら、「もう心配ない」というようなことを何度も口にしていた。何のことだか良くわからなかった。そこには、いつもジロウさんと一緒にいた爺さんの姿はなかった。 ジロウさんは翌日からいなくなった。親に聞いても知らないと言っていた。そのうち俺は、ジロウさんのことを忘れてしまった。
最近になって、俺はふとジロウさんのことを思い出した。いろいろと思い出してみると、ジロウさんは1年程しか村にいなかったようだ。大人になった今は良くわかるのだが、あんな狭い畑を耕しているだけで青年と爺さん二人が暮らせるはずはない。ジロウさんは一体何者だったのか。帰省した折に両親に聞いてみると、いくつか教えてくれた。
ジロウさんは修験者だった。四国には石鎚山という霊峰があるが、そこを中心に修行をする修験者の一人だったそうだ。当時俺の村には、不審な死に方をしたり、行方不明になる者がいたり、奇形の子が生まれたり、死産、流産が続いたりと、ろくなことがなかったらしい。確かに俺が子供のころは、よく山狩りが行われていたことを覚えている。赤ん坊というものも見たことがなかった。原因不明の不幸に見舞われ続けた村の年寄りが集って、そのツテでジロウさんは村に呼ばれたという。ジロウさんの生活費は、村人が少しずつ出していたそうだ。そうして、彼に村の不幸の原因を探ってもらっていたらしい。そうして原因をつきとめたジロウさんは、あの晩一人でその何かを解決し、村から去ったという。
その原因とは?俺は両親にさらに聞いたが、「自分たちにはわからない」という答えだった。俺はあの爺さんについても聞いてみた。「爺さんはジロウさんの親父さんか祖父だったのか?」と。両親は、そんな爺さんはいなかったと言う。ジロウさんは一人で来て、一人で住み、そして去っていったと。ジロウさんを呼んだ村の年寄りたちは既に死んでいる。彼らの家族に聞いても知らないということだった。彼の手がかりはもう何もない。生きていればもう50歳に近いだろう。今彼に会ったとしてもわかるまい。
ただ、村で話を聞くなかで、一つだけ新しく分かったことがある。明治の頃まで村は極貧だった。もともと林業が主で、作物などはほとんどとれない。食べるに困った親たちが、子供たちを連れて行く森があった。村から少し離れたところだ。そこで親たちは、子供の頭に石を振り下ろす。絶命するまで何度も。絶命したら、埋める。そうして村に帰り、皆に「子供が神隠しに遭った」と触れ回る。皆は知っているが知らぬふりをして、神隠しの噂だけが残る。昔はそういうことがあったと聞いた。