某半島の先の方にあるひっそりとした村の話です。
話は江戸時代より前に始まります。ある偉いお坊さんがいました。そのお坊さんは自分が老齢になったことから一門の後継に地位を譲り、救いを求める人々を導くための旅に出ました。西から東へ北から南へ色々なところを廻ったお坊さんはその村に行き着きます。そこでは貧しいながらも正直で親切な村人たちが慎ましく暮らしていました。海と山に囲まれた隠れ里のような村で、貧しい村落のことで寺や神社はおろか祠すらありませんでしたが、お坊さんは珍しい旅人として快く迎え入れられるのでした。
そのお坊さんは立派な精神の持ち主でありましたが、聖職者が崇められる時代のことです。
一門にいた頃の高い地位を隠しての旅とはいえども豊かな村では地主の家で畳の間に寝ることも少なくなく、立派な寺に泊まることも大層な饗応を受けることもありました。
その村での待遇は心こそ篭っていたものの村人たちの粗末な家を準々に泊まり歩くというもので、心の片隅では「貧しいところだ」と感じておりました。1ヶ月ほど村落中の家を巡っては、弔いを挙げられずに葬った家人はいないか?どこか体の悪いところはないか?と聞いて回ることが続きました。そうしたお勤めも村中を回り終え、そろそろこの村とも、という頃にやってきた旅人がありました。
旅人は流行の病気にかかっており、身につけた物も殆ど無いばかりか辺りに不快な臭いを発していました。お坊さんは村落の住人よりその話を聞き「ここは私のようなものが率先して」と思い旅人のもとへ向かいます。しかし病気の旅人の元には農作業の合間に住民が顔を出しては着るものを与え、食べ物を与え、薬草を持ってきては介抱をしてやるのでした。
お坊さんは自分の奢っていた部分を感じ恥じ入りつつも、その旅人の回復を祈るお経をあげてやるのでした。旅人はそのまま息をひきとりましたが、村人に手厚く葬られました。村人の中には、その旅人のものと思われる病を得るものもありました。高齢であったお坊さんも病に負け床に伏します。村人の看病もあり、数日後にお坊さんは回復をしますが視力を失います。
目の見えないお坊さんは旅を続けることができなくなりましたが、村人はお坊さんに鈴を持たせ鈴の音が聞こえれば手をとって先を歩き、食事を作って運んでは以前と変わらず不便にならぬよう接するのでした。「私は仏門に一生を捧げた。なお、奢りや油断を切り離せぬ。このような貧しい村の人々がなぜまっすぐに生きられるのか」お坊さんは村の子どもに手を引いてもらい、旅人の墓の前で自分に問いかけました。
旅人の墓では花が香っており誰かが新しく供えてやっているようでした。お坊さんはあることに気づきます。
いくら村が貧しいとはいえ墓が少ない。この1、2年に家族を亡くした村人にお経をあげてやりましたが、その亡くなったというのはみな子供や青年でした。お坊さんが村人にそのことを尋ねると、この村では還暦を過ぎたり不治の病を得たり、身に障りを持って産まれたものがあると岬から身を投げ海に命を返す風習があることがわかりました。そういった者には墓がなく、弔いの行事もないために村には神社や寺もないのでした。墓は突如の病気や事故で死んだ者だけに作られるものであり遺体を埋葬したという目印のためだけに、ただそこにあるのでした。
お坊さんはそれを聞き、あることを決断しました。村人にお願いし、近くにある大きな村の住職を呼ばせました。住職に自分の身分を明かし、寺の鐘を岬まで運ばせるよう言いました。鐘をさかさまにして地面に埋めさせ、その上に舞台を作り、舞台を覆うお堂を建てさせました。住職には非常に高価な香木でできた数珠を与え工事の代金としました。「村の慣わしには口を出さぬ。しかしせめてもの恩返しに、私はこの村の人々を死の恐れから解き放つ」住職に儀式の作法を伝え終えたお坊さんは鐘の中に入りました。鐘の上には床板がかぶせられ、お堂の扉は閉められました。
現代。
私の祖母が肺を病んで酸素ボンベを手放せなくなりました。喉が渇き声も思うように出せず、なにより息をするたびに胸が「ひゅー」と音を出し鈍い痛みがありました。ある夕飯のときに「もうよろしいか」と祖母がつぶやきました。祖父は「そうだな」と答えました。祖母は世話になった人にたくさんの手紙を書きました。身の回りの整理が終わると、持っているすべての着物を裂いて太く長い縄を作りました。自分、弟、父、叔父、伯母という直接の血のつながりのある家族も1枚ずつ身に着けるものを持ち寄り、縄にないました。
その日、祖母は縄にせず残した晴れ着を着ていました。家族みんなで車に乗り岬にあるお堂に向かいました。途中、お世話になった病院に寄って酸素ボンベを返却しました。「お世話になりました」祖母は先生に頭を下げました。先生はボンベを受け取る時に短く何度も頷きました。「今日ですか?」「ええ。それでは」祖母はもう一度頭を下げました。
お堂に着くと祖父が鍵を取り出して扉を開きました。中には1メートルほどの高さのお神楽の舞台のような場所がありました。階段になっているところがあり、皆でそこから舞台に登りました。祖母は縄を体に巻き始めました。たすき掛けをし帯の下をくぐらせ、またたすき掛けをし母に端を渡しました。「いろいろとありがとうね」「こっちこそね。おばあちゃん、元気で」母と伯母はお堂の外に出て扉を閉めました。お堂の天井からすぐ下のあたりは格子状になっていて光が差し込むのですが、それでも扉が閉まるとやっと互いの顔の見分けがつくほどに暗くなりました。
舞台の上で祖父が板を5枚ほど外しました。長方形に抜かれた板の下には丸い穴がありました。穴の中は周りよりもひときわ暗くなっており底は見えません。私達が立っている床板は円の半分のところまで来ており、足元の半月状の穴は暗闇の中でも「黒い」と感じました。祖母はまた「いろいろとありがとうね」と言うと帯から縄をたぐって少し離れたところを祖父に手渡しました。「よろしくね」「うん」祖父は自分の右手を2回巻き、左手を3回巻きました。その縄の続きを叔父、父が同じようにして、自分も同じようにしました。祖父が「おうい」というとお堂の外から縄が引かれてたるみがなくなりました。「じゃ」というと祖母は着物の裾をちらりとひるがえして私の視界から消えました。
祖父、叔父、父、自分と一瞬ずつ遅れて体が引かれ、縄が張ります。病で軽くなった祖母一人のこと、最初には衝撃がありましたが無事に支えました。すると凧を上げるときのような、はちみつをすくうような、布団をめくるような、静電気のような、粘り気のある力で綱が引かれます。自分のスニーカーが板とキュルという音を立てます。ガクン、ガクン、ガクン、ガクン、ガクン、ガクン、何度か連続して振動を受け、そのたびに縄が軽くなっていきました。
そして縄がスッポ抜けたように軽くなり尻餅をつきました。顔を上げると祖父の上に祖母が覆いかぶさっていました。頬は子どものように赤みが差し、胸はゆっくりと上下しても「ぜーぜー」という音を出さなくなっていました。祖母の縄を外し、自分と父とで打き抱えて車まで運びました。体からは柔らかな温かみが伝わってきます。髪の匂いを吸い込むと胸の奥が苦しくなるような甘く濃い香りがしました。数百メートル抱いて運んだだけなのに、自分の肩や背中等の触れていた部分が汗ばんでいました。
家に帰ると祖母を布団に寝かせて皆で昼食にしました。食事を終えて祖母の部屋の扉を開けると、甘い香りが這い出してくるようでした。
皆で昔話などしながら祖母の寝顔を見ていました。身動き一つなく、まつげ1本も震わせずに眠っていました。そうしているうちに窓ガラスに夕焼けが差し始めました。父が時計を見て、携帯電話から病院に電話をかけようとすると玄関のほうから声がして、朝の病院の医師が入ってきました。「どうもお世話になります」と祖父が挨拶をすると「いえいえ」と言いながら医師がふとんの中から祖母の左手を引き出し、脈をみます。
そのまま5分ほど経ちました。先生は窓の外を見ていました。私もそうしました。空の光が紫から紺色へと変わり始めた頃、祖母の頭がわずかにかくんと動いたように見えました。胸の上でゆっくりと上下していたふとんが動かなくなりました。先生は脈をとっていた手を胸の上に置くと時刻を告げました。何枚かの書類を作って祖父に渡すと先生は帰って行きました。
外は真っ暗になっていました。女衆が祖母を着替えさせていると、外に葬祭業者の車が止まり祭壇が運ばれてきました。そのまま通夜が行われ、翌日には告別式となりました。49日が終わった日に祖母の位牌の一握りを持ってお堂のある岬に行きました。皆で夕焼けの海に巻き、お堂に頭を下げました。
私も、いつか……
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祖母の位牌の一握り
遺灰ね
しかし不思議な話だ
葬式仏教は無いのに、貧しくとも親切で、墓に香華を手向ける村は、僧侶には浄土とは見えなかったようだが
「死の恐れから解き放つ」とは、やりよる