おれは昔はバイク、今は車で峠を攻めるのが好きなのだが、いつだったか「十文字峠(じゅうもんじとうげ)」に行った。春先の上天気のいい日で峠の手前だったか、小川のキレイな流れの横に小道が並んで峰のほうに向かっている。おれはめったにそんなところで車を降りないのだが、あんまりいい道なんで行ってみた。しばらく行くと、左手のほうにわき道があり、そこから登山者が一人上がってきた。
ぱっと見やせがたの60代前半の人で、軽く会釈して、おれの前をタッタッタッという感じで軽快に登って行く。まったくの軽装で、背中には小さめのデイパック、スパッツにウォーキングシューズみたいのをはいていた。おれはちょっといやな気がした。霊的なものではなく、「臭そうだ」と思ったんだ。その人は黒地に黄色かなんかの柄が入った上下だったんだが、とにかく汚い。汗が白くこびりついて、スパッツはアーミーグリーンのだんだら模様、ウインドブレーカーは色あせてるんだか、わけのわからない色になってる。
「トレッキングでもしてるのかな?車で来てるんだろーな。電車じゃ、帰りはひんしゅくものだ」
別に臭いは感じなかったのだが、おれは思わず歩調をゆるめ、その人は目の前の角を曲がっていった。相変わらずタッタッタッという感じで…。その姿が木の間がくれに数秒間見えていた。おれも間もなく同じ角を曲がったんだが、その先は直線で傾斜が急になっている。面倒くさくなって引き返そうとしたとき、先に行った人が気になった。だが、いない。道だけが静かに続いていた。このときも、怖さがあとからジンワリきた。
「そういえば、あの人、音がしなかったよな?」
タッタッタッというリズムはあの人の動作から感じただけで、「臭そうだ」という印象も、見た目の汚れ具合だけだったのだ。あの人はひょっとしたら、遭難者かもしれない。あの汚れ具合は雨風にさらされた遺体の服の色ではないか?やせがたの初老の印象はひからびた遺体そのままではなかったか?おれは今でも、あの人が最初にちょっと会釈したのを思い出す。