「お客さん・・・見ましたか?」

以前と言っても10年以上前の話ですが、現役バリバリの鉄チャンだった頃の実体験です。北海道の北東地域、オホーツク海に面した街、網走から夜行列車に乗って札幌へ向かう途中でした。


ご存じの方も多いでしょうが、タコ部屋と称する強制労働従事者により敷設された石北本線という路線があり、その中でも常呂地域と紋別地域を結び山を越える常紋峠という難所がありました。ここはとにかく陰惨な話には事欠かない凄いところでして、日中はそこで撮影したのですが、人気のない山の中で常に視線を感じるという思い出すのも嫌な場所でした。ちなみに、私は霊感と呼ばれる感覚が一切ありません。

夜行列車は留辺蘂という駅で若干停車した後、峠に向かってゆっくりと高度を上げていきます。常紋峠のクライマックスに挑む直前、最後の駅である金華駅に着いたとき、なぜだか列車が停車しました。ダイヤ通りで有れば通過な筈だが…と思っていたら程なく発車、たまたま通りかかった車掌氏に事情を聞くと、走行中ブレーキ系統に異常が出たと警告表示が付いたので運転士が停車させて点検したとのこと。ブレーキのテストを行ったら問題無かったので再度発車したのだそうでした。

しかしこの時、車掌氏は決してこっちを見ず、何かに脅えている様子がはっきりと見てとれました。私はなにかまずいと思ったのですが、顔には出さず静かに荷物をまとめて自分の寝台に潜り込みました。その時は、私を含めて3人しか乗客が居なかったので、余った毛布を隣の寝台から拝借し、2重に被って寝てしまおうとしました。

やがて列車は速度を落とし、長い編成はカーブに沿って右へ左へ曲がっていきます。エンジンの音が轟き、ジョイントを越えるリズムはゆっくりになっていきました。ややあってまもなく峠の頂上か?と言うところまで来て列車が急激に減速。急ブレーキに近い状態で止まるのではないか?と思ったほどです。しかし列車は止まらず、先頭の運転士が警笛をバンバン鳴らしながら列車は加速を再開しました。

その時は咄嗟に「あぁエゾシカでも飛び出したか」と思ったのですが、歩くような速度で坂道を上りきり頂上のトンネルへ突入したのです。その道では、つとに有名なオカルト現象頻発トンネルの常紋トンネルへ…。

トンネルに突入した後もなぜか運転士は警笛を鳴らし続けていました。トンネルの中までエゾシカが?と思っていたのですが、やがて只ならぬ気配に気が付きました。寝台車の中が急激に生臭い…と言うか汗くさいというか、何とも言えない臭いで充満してきました。
そして…今でも忘れられない音…。ガシャともグシャとも付かない割れた陶器を布袋に入れて床に落とすような…。そんな音が寝台車の通路を通過していきました。

警笛が響き渡り、列車のエンジンが唸っている状態。やめればいいものを…そう思っても後の祭り。ふと毛布から頭を出して、カーテンを少しだけめくって廊下を覗いてみました。なんであんな事をしたんだろうと、本当に今でも後悔しています。なんであのまま毛布を被っていなかったんだろう。その光景は、眼前にありました。

廊下に点々と水がこぼれていたと言うより、ハッキリ足跡状態になって続いてました。寝台車の構造をご存じの方なら分かると思いますが、寝台の中からは廊下の隅まで見る事ができません。しかし、廊下の頭上、窓の上の部分に小さな鏡が付いているのですが、そこに写っていたのは「黒い陰」でした。その黒い陰が、廊下の奥の方へすーっと消えていったんですけど、やはりガシャともグシャともつかぬ音が響いてました。

そして、その陰が廊下の隅へいったとき列車はトンネルを抜けたのですが、その黒い陰が何故か振り返ったように思えたのです。まるでトンネルを振り返るように…です。本当に怖い状態になると、人間身動きがとれなくなると言うのを実感しました。やがて、その黒い陰がすーっと消えたのです。なんて言うのかな、フォトショップとかで画像の透明度を変更して背景が陰越しに見えるというか、そんな感じ。やがてほぼ消えると思った瞬間、凄い速度で…窓の外を流れる景色と同じ様な速度で廊下を駆け抜け…と言うより横に吹っ飛んで消えたんですけど、自分の目の前を通り抜けるとき、なぜだか…本当になぜだか知りませんが、その陰の顔がこっちを見たような気がしたのです。

と言うのも、まさに感覚的な物ですが、目と目があったような気がしたんです。なんて言うのか、そう、恨みのこもったような眼差しを感じました。それで何かもう心底怖くなって石のように固まっていました。しばらくして我に返ったときは車掌さんが廊下から声を掛けたときです。「お客さん…見ましたか?」でした。大丈夫ですか?ではなく見ましたか?と声を掛けられました。

車掌氏は慣れた手つきで廊下の水を拭き取ってました。それって…そこまで言ってから声が出なくなりました。ふき取ったティッシュがほんのり赤かったのを見たからです。車掌氏はどこか遠いところを見るようにボソッと「金華で臨停するときは100%出るんですよ」と言って、車掌室へ消えていきました。その顔は青ざめきっていて、まるで人形のようでした。

峠を越えた列車は速度を上げて坂道を下っていきますが、いつの間にか警笛は鳴らなくなっていました。ただ、なんかいつもより速いなぁ…と思っていたのですが、それよりも動悸が収まらず寝台の中で小刻みに震えていました。やがて列車は遠軽という駅に到着しました。なんか喉が無性に渇いたので駅のホームの自販機で缶コーヒーを買ったのですが、ちょうどそこへ運転を終え交代した運転士さんが通りかかりました。「峠の上でシカでもいたんですか?」と声を掛けたんですが、運転士は力無く笑って「いや、シカではなかったです」とだけ言って、詰め所に入ってしまいました。

現場の運行スタッフも嫌がる常紋の恐さを体験した夜のことです。これは誓って実話です。

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