知り合いの話。
盆に里帰りしていた時のことだ。実家の前はすぐ漁港になっており、一歩外に出れば、潮と船の姿が確認できる。夜、玄関先に縁台を出して祖父と将棋を指していると、沖から波とは別の音が聞こえてきた。
「ぎぃ ぎぃ ぎぃ」
櫂を漕ぐ音。幼い頃はよく耳にしていたが、実際に聞くのは久し振りだった。
「へぇ懐かしい、手漕ぎ舟ってまだあるんだねぇ」
そう祖父へ言ったところ、渋い顔でこう返してくる。
「今時に手で漕ぐ舟なんか、どこの家も置いてねぇよ」
祖父はそれ以上何も口に出さない。局面は祖父に不利であり、それを打開しようと必死な様子だ。その内、知り合いは奇妙な事に気が付いた。櫂を漕ぐ音は小さくも大きくも成らず、ずっと聞こえ続けている。だのに、どこからも近づいてくる舟の姿は見えないのだ。訝しげに暗い海を見やる彼に向かって、祖父は言葉を掛けた。「盆の夜に海をまじまじ見るもんじゃねぇ。連れてかれるぞ」
彼はその忠告に従い、海を見るのを止めた。その後も将棋を指している間中、沖合から手漕ぎの音が聞こえていたという。