「霊魂」の存在を信じた体験

世の中には霊魂を信じる人がいる。逆に全く信じていない人も大勢いる。現代科学の分野でその存在を証明した人は誰もいない。(と、思う)では人の死後、その霊魂を極楽浄土へ導く仕事の僧侶達は信じているのか?


仏教の開祖・釈尊はその「霊魂」という存在について議論するのを禁じたと言う。それは目に見えない「魂」の存在をあれこれ問題にするよりも、生きている現在を「いかに生きるか」が大切なのだという教えだったのだろう。

ところで、わたしの友人に二人ばかり僧侶を生業にしている奴がいるが、彼等が霊魂の存在を信じているのか気になって訊ねたことがある。答えは・・・「霊魂は存在するだろう」・・・という返答だった。山寺での修行中、僧侶たちの多くは変な体験をしたり・見たりするらしい。その体験談もかなり薄気味悪いが、今日は別な話を書くとしよう。

わたしが子供の頃、近くの寺にひとりのお坊さんが住んでいた。子供好きで、話し上手。檀家の誰もがこの坊さんのことを尊敬していた。人相は悪いが、そこにいるだけで「ありがたい」と思えるような坊さんだった。

ある年の夏休みのことだ。近所の友だちと寺の境内で遊んでいると、その坊さんがスイカを御馳走してくれた。坊さんと、わたしと、友だち3人で縁側に座り、蝉の声を聞きながら他愛もない話をしていた時、友だちのkが「幽霊って本当にいるの?」なんて質問をした。いるさ。坊さんはあっさりそう答えた。

そんなものいるハズないと声を張り上げるkとわたしに、坊さんは今夜泊まりに来るよう誘った。両親に寺に泊まる許可をもらったわたしとkは、わくわくしながら夕飯を食べ、暗くなってから寺を訪ねた。すると坊さんは麦茶を一杯飲ませてくれた後、わたしたちを本堂へ連れて行った。

これから夜の御勤め(読経)をするから、そこに正座して静かにしてなさい。わたしたちは坊さんの後ろに並んで座り、嫌々ながら読経につき合わされるハメになった。子供にとってそれは恐ろしく退屈で、足の痺れる苦痛な時間だった。だが悪ふざけをする訳にはいかない。この坊さん、子供好きで優しいが、悪いことをすると容赦なく叱るのだ。それを身にしみて知っていた私達は、黙ってお経が終わるのを待つしかなかった。

読経が始まってしばらく経った時だ。本堂の入り口、つまりわたしとkのすぐ後ろで物音がした。何の音だろうと耳をすましていると、どうも人の足音のように聞こえる。しかも靴の中にたっぷり水を入れたまま歩いているような、グチョッ、グチョッ・・という足音だ。

それから、誰かにジッと見られているような嫌な感覚。思わず背筋がゾッとしてkの方を見ると、彼も同じものを感じたようにわたしを見ていた。和尚さん・・・助けを求めるようにわたしたちは小声で坊さんを呼んだ。が、坊さんは左手をちょっと揚げてわたしたちを制した。そのまま大人しくしていろ・・・そう合図しているようだった。

読経の間中、その不気味な足音と視線は続いた。これからどうなってしまうんだろう、わたしたちは訳もなく不安になり、半ベソ状態だった。やがてお経が終わると、正体不明な音も視線も、綺麗に消えた。私達は緊張の糸が切れた勢いで坊さんにしがみついた。

夜、御勤めの読経をしていると、成仏できない仏様がたまにやって来るらしい。今夜来たのは、おそらく3年前に近くの川で身投げした身元不明の女の人。毎年、同じ月日の同じ時間にやって来るのだという。幽霊がいるかいないかは分からない。信じる人も信じない人もいる。だが、こういう奇妙な体験をしてしまうと、坊さんを続けなくちゃいけないと思うね。

坊さんは静かにそう言った。

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