その山村には、奇妙な言い伝えがあった。寛政年間(18世紀終盤)のある年、雲一つ無いよく晴れ渡った空から、にわかに雨が降った。おかしな事もあるものだと村人が空を見上げていたところ、雨水と共に鰯やヒジキなどの海の幸が降り注いできたというのだ。天の恵みとばかりに村人たちが魚を拾い集めていると、何処からかきゅうきゅうとすすり泣く声。辺りを見回すと、魚に交ざってずぶ濡れの裸の女が居た。
女は身の丈四尺(約120cm)と小柄で、色は透き通る程に白く、手足には魚のような鰭があった。ある若者が恐る恐る女に話し掛けたが、彼女は口が聞けないのか、名を問うても何も答えない。するとそこへ、話を聞いた名主が息を切らせながら駆け付けて来た。名主は女の姿を一目見ると、天からのお遣いに違いないと判断し、村を挙げて手厚く持て成す事にした。
誰が言ったのか、いつしか女は『アマヒメ様』と呼ばれ、村のそこかしこで歓待された。しかし彼女は差し出された供物には手を付けず、ただ西の空を仰ぎ見てきゅうきゅうと泣くばかり。終いにはアマヒメ様は渇きに渇いて、その身を永遠に横たえてしまった。不憫に思った村人たちは、村を見下ろす高台にお社を建て、アマヒメ様の遺骸を祭った。それから村は、貧しくも諍いの無い平和な日々が何年も続いていたと云う。
アマヒメ様に声を掛けた若者の髪が白く染まり始めたある年、幾日も日照りが続き、村は困窮した。村人たちはアマヒメ様にすがり、雨が降る事をただ願うしかなかった。そんな折、山火事が起こった。火の手は見る見るうちに拡がり、村へと迫る。やがて火はお社まで押し寄せ、アマヒメ様は紅蓮の炎に包まれた。すると燃え盛るお社から濛々と青い煙が立ちこめ、それが天へ昇り青い雲になったかと思うと、辺りに桶を引っ繰り返したようなどしゃ降りの雨を齎し、煉獄の炎を容易く消し去った。青い雲は仄かな潮の香りを残し、そのまま風に乗って西の空へと流れて行った。村は灰になる事から免れた。人々はこぞって天を仰いで手を合わせたと云う……。
その後、お社は再建され、御神体としてアマヒメ様を象った木造が祭られたそうだ。しかし長い年月が経った末、木造はすっかり朽ち果て、かつての姿を推し量る事は難しいと云う。現在この地で神職に携わるある方が、遠い昔に想いを馳せながら語ってくれた話である。