営業の仕事をしてた頃の話。
仕事にも十分慣れて、入社した頃のようなガムシャラさは失せ、
要領よくこなす事を覚えた俺は、毎日のサービス残業の疲れを、車の中での昼寝で補うようになっていた。
人気のない場所で車を止めて、コンビニで買った漫画と昼飯食いながら、
昼過ぎから夕方まで寝て、あとは適当に顧客をまわって帰るのがほぼ日課だった。
多少の後ろめたさはあったものの、労働基準法を完全に無視した会社のシフトのおかげで、
体力的に、そして営業という仕事柄、ノルマの壁には精神的にかなり衰弱しきってたから、
どんな場所でも眠りにつくのは簡単だった。
でもいつも深くは眠れず、疲労からくる金縛りはウチでも車でも常にだった。
師走のその日の昼も、いつものように車を停めて寝入っていた。
前に顧客まわりの途中に見つけた、ダム脇のちょっとした空き地。
国道からは茂みで丁度死角になる小道を進むと、
その頃住んでいた、安アパートの駐車場くらいのスペースがあった。
昼飯を食べ、軽くシートを倒して漫画を読んでいると、睡魔は襲ってくる。
そして案の定、金縛りはすぐにやってきて、いつものように自分の心と体の状態を実感させてくれた。
目を開くと、カーオーディオのディスプレーが、時間と曲のタイトルを表示していた。
時間は18:05で、曲は当時友達の影響で聞き始めたレディオヘッドだったと思う。
「あれ?こんなに寝てしまったか?」と思いながらも、金縛りはまだ解けない。
重い感覚の中、動かせる目だけをフロントガラスにやると、もう暗くなっていた。
こんな季節にこんな時間まで寝込んでしまったら、まぁ当然だ。
「言い訳が必要か」と考えつつ、何となくそのまま眺めていたフロントガラスの右上、
丁度運転席の自分の目の前に、人の手の影が見えた。
黒い影の手が、車のフロントガラスに手をかけている?
一度その影から目を切ってディスプレーに目をやると、丁度18:05から18:06に変わる瞬間だった。
「ディスプレーの光が目に焼き付いて、そう見えたんやな」
そう思い直し、もう一度フロントガラスに目をやった。
今度は、影の顔がこっちを覗きこんでいた。
表情は分からない。
ただぼやけた輪郭の真っ黒な影が、片手をガラスにくっつけて、車の中の俺をみていた。
こんなとき、その人の怒りとか悲しみだとかを感じた、というシチュエーションをよく聞くが、
元来無心信な俺は、その影の気持ちなど分かるはずもなく、ただその影の顔を眺めていた。
金縛りには慣れっこの俺も、そんなモノを見るのは珍しかったから。
「これは霊ってやつなんかな?それかやっぱ夢?」
いろいろな考えが頭をめぐった。
その間も影は、微動だにせずこっちを見ている。
ふと気づくと、俺は影を眺めているんじゃなくて、目を動かせなくなっていた。
どうやっても他の場所を見ることが出来ない。
さっきまで見ていたディスプレーも、読みかけで手に持ったままの漫画も見れない。
影は微動だにせずこっちを見ている。
それが分かった途端、ようやく恐怖心がジワジワと襲ってきた。
影はこっちを見ている。
「やばい、どうしよう」
影は見ている。
コンコン
ふいに横のガラスが鳴った。
恐怖は一気にピークに達していた。
「怖い怖い怖い」
動かない体で、情けないくらいもがいていた。
コンコンコン
今度は強めに鳴った。
同時に体が自由になった。
ディスプレーに目をやると、まだ14:30…十分程度しか寝てない時間だった。
当然外はまだ明るく、覗いていた影ももう消えていた。
音のした方を見ると、窓の外に50代と30代の男が二人立っていた。何か喋っている。
「大分県警のものですが」
30代の男がかざしていたのは、ドラマでしか見たことのない警察手帳だった。県警の私服警官だ。
慌てて窓を開けた。
「はい?何ですか?」
「こんなとこで何してるんですか?」
「寝てるだけですよ。何かまずかったですか?もしかして私有地とか?」
「いや、そうではないんですが…。ほら最近不景気じゃないですか。
多いんですよ。こういう寂しい場所を選んで、その…自殺する人とかがね」
「確かに仕事はキツイですけど、自殺なんて考えた事もないですよ。僕がそんな風にみえますか?」
「そりゃみえますよ。あなた自分の手で首絞めて、白目剥いてたんですから。何事かと思いましたよ」
「…………」
暫く話した後、二人は覆面パトで帰っていった。
あの場所とダムで、人が亡くなっている記録は、その時点ではなかったそうだ。
しかし、あの影はなんだったのだろう。
気持ちの悪さだけは胸に残り、俺も直ぐにその場を離れた。
とても一人ではいられなかった。
いつもより早く会社へ戻り、電話で顧客へのご機嫌伺いに奔走した。
それからというもの、俺はなぜか営業の外回りに出るたびに、
記憶のなかのあの影に怯え、昼寝ができなくなってしまった。
ほどなく睡眠不足から体調をくずし、軽い鬱病にもかかってしまった。
鬱な状態で営業成績もあがるはずがなく、会社表彰を受けるほどだった俺が、
ワーストグループに加わるのに時間はかからなかった。
あの場所で昼寝をした日から、一ヶ月もしないうちに辞表を出した。
会社の人は誰も俺を止めはしなかった。
厄介者が放り出されるように、俺は会社を辞めた。
あの影がなんらかの心霊現象だったとは、今も思っていない。
後ろめたい気持ちで昼寝してたために、眠りが浅くなり怖い夢を見ただけなんだ。
仕事を甘く見てた俺だから、当然の結果なんだよ。
そうでも思わなきゃ、今でも金縛りと共に現れるあの影が、
俺を更に不幸にするんじゃないかって考えてしまって、こわいからさ。