【友人の奇行】「この傘だけは、あげないわあ」

駅前で偶然、顔見知りと出会った。別段親しいわけでもない、『知り合いの知り合い』といった感じなのだけれど、何かとよく顔を合わせる彼女。たまたま彼女も自分と同じように、待ち合わせまでかなり時間があるということで、どちらが言い出すともなく駅前の喫茶店で時間を潰すことになった。

コーヒーを飲みながら他愛もない話をしていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。喫茶店に入る頃から今にも降り出しそうな曇り空だったので、すぐにザアァ……と本降りになる。雨はしばらく止みそうにない。次々と落ちてくる雨粒を見るともなしに見ていると、やがて時間になり「そろそろ時間だから……」と席を立ち、会計を済ませる。

二人、連れ立って店を出ると、彼女はひょいと店の前に置かれた傘立てから一本の黒い傘を抜いた。驚いたのはこっちだ。いやいや、アナタ店に入る時傘持ってなかったやん。それを指摘すると、彼女はあっけらかんと言い放つ
「だって、雨降ってるし。濡れるの嫌じゃん。」
「いやいやいや、アナタがその傘取っちゃったら、傘の本来の持ち主が濡れて歩かなきゃならなくなるじゃない」
彼女の返答に言い様の無い徒労感を覚えるが、彼女もこちらの言い分にムッとしたようだ
「いいじゃん、この傘埃ついてるし。しばらく誰も使ってないみたいだから、私が使って上げるのよ」
いやいやいやいや、そういう問題じゃないだろう……そう言い掛けたが、ふと気付く。傘は確かに彼女の言う通り、埃っぽかった。この雨の中さしてきたとはとても思えない。というより、2~3ヶ月と言わず、2~3年放置されたと言われても可笑しくないような様子だった。

(これってもしかして、『誰も使ってない』んじゃなくて、『誰もが避けて通る一品』なんじゃ……)
それに思い至った時には、既に彼女は
「じゃ、私、待ち合わせあるから」
『これ以上の話は不要』とばかりにさっさと身を翻していた。手にはしっかりとあの黒い傘をさして。

次に彼女を見かけたのは、2ヶ月後だった。……この2ヶ月間で何があったのだろうか。痩せこけ、目元には『化粧でもこうはいくまい』と思えるほど濃いクマが出来、目は落ち窪んでいるにも関わらず目だけはギラギラと光っていた。そして、手にはしっかりとあの黒い傘を抱いていた。彼女はこちらに気付くと、ニヤリと笑う。
「……アンタも私のこと『可笑しい』って言うの……でもダメよ、この傘はあげないわぁ……」
彼女はそれだけ言うと、雑踏の中をフラフラよたつきながら去っていった。

最後に彼女を見たのは、黒い縁取りの白黒の写真の中でだった。奇行を繰り返し、誰も近づかなくなった彼女は、浴室で倒れていたのだという。シャワーを出しっぱなしにし、黒い傘を広げた下で。だがそれ以降、黒い傘を見た者は誰も居ない。晴れているにも関わらず室内でさす程彼女が気に入っていた傘なら、一緒に棺に入れてやろうとしたのに、ほんの少し目を離したうちに、傘は見当たらなくなったのだという。今でもあの傘は、どこかで引き抜かれるのをひっそりと待っているのかもしれない……

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