滝の中で聞こえた「ヒト」の声

雪解け水の季節や、夏の降雨期を終え、水が少なくなった滝を登っていた。掌に吸い付く一枚岩の乾いた冷たさが心を浮き立たせ、指先に感じる小さな窪みが何とも気持ちよく、気温や湿気、光る空気が心地よかった。水が少ない滝はルートに幅があり、自分の技術に合わせて、好きなルートで登ることが出来る。俺は右斜めに登り、最後に水を避けて左へ逃げるルートで登っていた。顔にかかる水しぶきが増え始めた。そろそろ左へ方向を変えよう、そう思った時、不意に声がした。何かの鳴き声に思え、耳を澄ました。人の声だ。

距離は分からない。言葉は意味あるものとして耳に届かない。じっと聞き耳を立てた。水音が邪魔で、やはりよく聞こえない。下にいる仲間たちの声ではない。右側、水の流れの向こうから聞こえてくるように思えて仕方ない。知らず知らず、身体が右に寄った。左手が岩の窪みを掴み直した時、岩がぐらりと揺れた。

まずい。掴んでいた突起がもげ、手ごたえの無いまま左手が宙に浮いた。バランスが崩れ、右手に力を込めた。崩れたバランスを回復させようと、全身が力みかえり、呼吸が止まり、喉が痛くなるほど唸った。左足に力は入らず、ただ岩の上にあった。右手右足を支点に、ドアが開くように煽られた身体がじわじわと戻り、岩が左手の中に入ってきた。左手中指、力を込め、岩にしがみついた。

「ごめんね」
耳元で男の声がした。瞬間、水の流れる音が変わり、水が巨大な塊となった。音と水しぶきが、俺の世界を満たした。両手から岩肌が失われ、数メートルを滝壷まで落ち、下で待っていた仲間に
引き上げられた。俺が怪我ひとつしていないことが分かると、心のどこかで何かが外れ、最初に俺が笑い出し、やがて全員が爆笑した。

仲間たちにとって、今でもそれは不意の増水と、無様に転落する俺の姿とによる笑い話でしかない。


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