昭和初期は、治水のため各地の山間にダムが造られた時代でした。
今ほどに土木技術が発達していなかったので、ふもとから工事現場まで、山の斜面や崖沿いに、木やコンクリートで渡り廊下のような山廊を何キロにも走らせ、物資を運ぶ道としていたのでした。しかし、こうした山廊は、しばしば大雨や土砂崩れによってなぎ折られました。
工事の施工や物資の運搬といった労働は、安い賃金で休み無く働かされていた苦力たちが担っていましたが、彼らの中にはこうした事故に巻き込まれ、時には数十人単位で山廊から虫けらのように谷深い山麓の中にこぼれ落ちる者があったといいます。そうした人々の遺骸は引き上げられることも無く、朽ちるまま放置されるのがほとんどでした。今でも、この時代の山廊の跡が各地の古いダムに残っています。
この話は、私が仕事で知り合った建築技術者からから聞いたものです。彼はまだ若い頃、北陸のあるダムの視察に赴きました。このダムは、昭和始めに人も分け入らぬ山中に建てられ、老朽化が進んでいたものの、近年ふもとからの道路が敷設され、ようやく営繕工事の見込みがついたものでした。
しかし、視察が一段落し、いざ下山となった時に、突然の大雨に遭い、土砂崩れの危険があるため下山を断念し、仲間数人と車で夜を明かすこととなってしまいました。崖下の道路脇に車を停め、毛布に包まってウトウトしていた夜更け頃です。
道路から遥か崖上にある山廊跡に人影が見えました。その人影は、じっと彼らの車を見つめているようです。「この土砂降りの中、あんな危険な所であいつは何をやっているんだ!」彼は仲間と車から飛び出し、その人影に向かって呼びかけました。「危ないぞぉ!」「降りて来い、降りられるかァ。」すると、その人影も懐中電灯を回しながら答えました。「ここは崩れそうだ、危ないからお前たちはもっと奥へ寄れェ。」
彼は再び呼びかけました。「お前はどうするんだ!」「俺はいいから、お前たちはもっと奥へ寄れェ。」彼は、言われた通り車を奥の避難帯に寄せ、改めて山廊跡に目をやりましたが、そこにあの人影はありませんでした。
次の朝、雨はすっかり上がりましたが、彼らはその日も下山することができませんでした。土砂崩れのため、道の一部が埋まってしまっていたからです。埋まった場所は、昨夜彼らが最初に車を停めていた辺りでした。彼らは、昨晩自分たちに危険を知らせてくれた人物がいた事を消防に説明し、安否を確認するよう依頼しましたが、その夜ダム付近には自分たち以外に留まった者はいないこと、ふもとの村にも行方不明者はおらず、道路復旧のためにより分けられた土砂からも誰も見つかっていない事を簡潔に伝えられただけでした。
そのダムは、建設当時、相次ぐ事故で100人近くの苦力が亡くなったと伝えられています。今では彼は、その苦力の御霊が、危難から救おうと声を掛けてくれた自分たちに恩義を感じて危険を知らせてくれたのだと信じているということです。なお、現在このダムに通じる道路には、事故で亡くなった苦力たちを弔うための慰霊碑が建っています。
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この人は苦力をクーリーって呼んでたのかな?
北陸のダムでの扱いは文献に残ってる?
強力ゴウリキとは別物?
戦後の自虐史観で、ゴリ押しされたからなあ
秋田の花岡事件は、「華北労工協会」(北支政府)による雇用契約で、鹿島建設は法的責任を否定し、支那人受難者側はこれを「了解」するとした。
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この「苦力」慰霊碑も胡散臭いなあ