川が呼んでいた

2001年の話。

俺は渓流釣りが趣味で、ウチの近くの川の源流部へよく釣りに行っていた。
車で30分程度の距離、適度な水量、あまり険しくない流れなど、1人で行ってもさほど危険を感じないような場所である。

3月には珍しいくらいの大雨が降った翌々日、俺はその渓流へ入った。
車を降りてから最初のポイントまで行く間に、砂防ダムを一つ越える必要がある。
歩きながらふと砂防ダムの上を見ると、大きな鹿がいた。
いつもなら人影を見ると逃げるのだが、この日は全く動こうとしなかった。

砂防ダムの下まで来ると、そこには足でも滑らせたのだろうか、すでに冷たくなっている子鹿の姿があった。
すると、砂防ダムの上の鹿はこの子の親か。
親鹿は悲しげな表情をしたまま森の中へ消えていった。
俺は子鹿のために小さく合掌をしてから、その場を後にした。

いきなり自然の現実を目の当たりにしたためか、それとも曇天のせいか、この日は足取りが妙に重かった気がする。




竿を出して釣行を開始する。大雨の後に釣り人が入った形跡は全くない。
この川では珍しいライズ(魚の飛びはね)も確認できる。
いつもなら小躍りするような好条件なのだが、この日はどうもおかしかった。
何でもないような所で根掛かりをしたり、木の枝に引っ掛けたり、木の根に躓いたり、石の上で滑ったり・・・
その時は大雨の影響だろうと考えていたのだが、今考えると、まるで『奥へ進むな』と言う警告だったような気がする。
右膝と臀部に打撲を負った。しかし、魚だけは良く釣れていた。
こうなると釣り人の性か、前へ進まずにはいられない。
もう少し、もう少しだけ・・・二段淵まで行こう・・・
『二段淵』とは、巨大な岩盤に囲まれた絶好のポイントである。
ここに着くまでに右肘と右手の甲に擦り傷が増えていたが、なんとか二段淵に到着し、ほっと一息ついた。
水量が少し多い他はいつもと変わらない景色・・・のはずが、何かおかしい・・・
淵全体の雰囲気がいつもと違った。
いつもなら下流に向かって気持ちよく風が吹いているのだが、この日は無風。
ライズも影を潜め、川から生命感が無くなっていた。
さらに、不気味なほどの静寂・・・そう、鳥の鳴き声一つ聞こえないのだ。

奇妙に思いながらも、ここまで来たからにはと竿を出した。
案の定、当たりは全くない。
もう終おうか・・・と思った矢先、二段淵の上の淵で魚が跳ねるのが見えた。
上の淵へは、川の上流に向かって左側の大きな岩をぐるっと回り込んで行かなければならない。
しかし、さほど危険ではないので、最後に上の淵を攻めてから終わることにした。
上の淵に竿を出すと一発で掛かった。大きい!慎重に取り込む。
上がった魚は50cmを越えるイワナだった。
しかし・・・確かにイワナなのだが、ガリガリに痩せている。
産卵後のイワナを見たことがあるが、それよりも遙かに痩せ衰えている。
餌が豊富なこの渓流で、今までこんな痩せた気味が悪い魚は見たことがない。
もう帰ろう。 釣った魚を逃がして竿をたたんだ。

帰り支度を整えて振り向くと、道が・・・ない!
先ほど登ってきた道・・・そこには苔むした岩と老木が、まるで何十年もそこにあるように道を塞いでいた。
半ばパニックになりながら別の道を探した。
下流を向いて左側の岩伝いに、何とか下の淵へ行けそうである。
躊躇なく岩に飛びつき、足場を確認しながら下流へ向かうことにした。

少し進むと、「お ~ い」と頭の上の方から声が聞こえた。
歩を止めて上を見るが、崖の上に人の姿はないようだ。
もっとよく見ようと少し戻り、頭上に張り出した木の根を掴んだ。その瞬間!!
「おいっ!!」
背後からの大きな声が・・・
そして、自分が掴まっていた岩が足場ごと岩盤から剥がれた。
ドガガアアァァン・・・
岩は大きな音を立てながら淵の中に落下していった。

オレは木の根を掴んだ状態で宙づりになっていた。
もし手を離していたら、今頃は淵の底で岩に押しつぶされていただろう。まさに紙一重だった。
上の淵の砂地の所へ戻ると、両足がガクガク震えている。
全身に鳥肌が立ち、気持ち悪い汗が止まらなかった。
さっきの声は・・・?辺りを見回したが、声の主らしき人は何処にも居ない。
ふと気付くと、さっきは岩と老木があった場所に『登ってきた道』が見える。
オレは少しでも早くこの場を離れたくて、無我夢中で川を下った。

翌日、近所の爺さん(釣りの師匠)にこの話をした。
すると、「川が呼んどったんじゃろうなあ。けど、無事だったのは、山がお前を助けてくれたんじゃな。
 川が呼ぶ日がある。山の呼ぶ日もある。どちらも怖いよ。そういう日は深く入らねえほうがええ」
もっと早く教えてくれよ師匠・・・。

メールアドレスが公開されることはありません。