妖怪・怪異・八百万の神々

木にぶら下がる瞳のない者

父ちゃんから聞いた話。父ちゃんがまだ山一つ向こうの小学校に通ってた頃、毎日が冒険だったそうな。猿や鹿なんか日常茶飯事で、小熊や猪に遭遇したことも二度や三度ではなかった。そんな山の通学路で一度だけ、『人のようなもの』に会ったことがあったらしい。




もちろん顔見知りの村の人間でもなければ、見たところ麓の人間でもない。それは一糸纏わぬ所謂全裸で、木にぶら下がってニヤニヤ父ちゃんを見下ろしていたんだそうだ。幼い父ちゃんはこれが世に言う物狂いだと、目をそらして急いで素通りしようとしたんだけど、目が合った途端恐怖で足がすくんで動けない。泣いて走り出そうとしても、声の一つもあげられなかったそうだ。しばらく見つめあってると、唐突にそいつが木からノソノソと降りて来て、自分の方へニヤニヤしながら向かってきた。父ちゃんは身動きが取れないまま、でもそいつから目を離したら殺されてしまうと思い、一生懸命、幼いながらも死に物狂いでそいつを睨み付けていたそうだ。しかし、さすがにそいつが目の前に、父ちゃんの顔に鼻がつきそうなほど近くに顔を寄せて来た時は、耐えられなくなったらしく、ついギュッと目を閉じてしまった。すると、耳元でそいつが囁いたらしい。
「入れてくれろ」
余りの怖さからなのか、自然と口から悲鳴が出て、声に遅れて身体も動くようになったらしく、目の前のそいつを突き飛ばして、家まで大声をあげて走ったそうだ。

それから、その事を爺ちゃんと婆ちゃんに話すと、村総出で山狩りが行われたそうなんだけど、結局そんな人は見つからなかったらしい。「あの時は本当に怖かった、あの囁き声は今でも覚えてる」と、ビール片手に父ちゃんが話してくれた話でした。

ただ一つ気になるのは、父ちゃん曰く、その『人みたいなもの』には、瞳がなかったということ。恐怖で記憶が改竄されてしまったのか、それとも訳有りで山に捨てられてしまった人なのか、それとも… その話を聞いてしばらくは木の上を見るのが怖くなったのは、ここだけの話です。