妖怪・怪異・八百万の神々

首無しの谷間に棲む「大トンボ」

なんとなく流布している噂によれば、その谷間を歩く時は、できるだけ斜面寄りを歩くように、との事だった。かつて、首のない死体が発見された事がある。切られたといえなくもない傷跡だったが、切り口の様子は、いわゆる刃物によるものではなく、その首も見つからなかった。

日が傾きかける頃、その川筋に到着し、もう少し距離を伸ばしておこうと川沿いに歩き始めた。コウモリが一匹飛んでいるが、空はまだ明るい。ぶぅん・・・妙な音がした。羽音には違いないが、聞いたことのない音だ。

頭上、後ろから、細長い何かが姿を現し、コウモリに突進し、通り過ぎるとコウモリの姿はなかった。素早くコースを変え、高度を変えるコウモリを正確に捕食したらしい。そいつは、そのまま高度を細かく、素早く変えながら川上方向へ飛び去っていく。

トンボだ。尋常なトンボではない。全長は2メートル近いように見えた。首のない死体が生きていた頃、彼に何があったか、突然頭にひらめいた。できるだけ斜面寄りを歩けという注意の意味も。

大型のトンボの中には、決まったコースを往復して、捕食するものがいる。だいたいは昆虫だが、先ほど見た、あの巨大さ。あのサイズともなれば、昆虫くらいでは腹を満たせまい。この川筋、そこそこの大きさの生き物といえば、自分しかいない。斜面に寄り添っていれば歩きづらいが、トンボは羽が熊笹や木の枝に当たるので飛ぶ事ができず、捕食される事はない。そして、頭を失った男はそうしなかったのだ。

川上から、トンボが来る。斜面に寄り添って歩く姿が見つかったらしい。速度がゆるみ、頭がこちらを向いた。ぶぅぅぅん・・・・距離、数メートル。恐怖も手伝って、羽音が凄まじい。そして、何枚かの刃物が組み合わされたような、その口。あれで食いつかれたら、確かに不思議な切り口ができるだろう。人の頭はトンボにとって、手ごろな高さでもあろう。

急加速し、飛び去った。
二度と姿を見なかった。